「土偶」はいつ誕生しどう発展していったのか?─土偶の歴史─
今月の歴史人 Part.4
「縄文時代」と聞いて、土偶を思い浮かべる人も多いだろう。では、その土偶とはいったい何だったのか、その誕生や変化についてここでは紹介する。

土偶はいつ作り始められ、何のために作られ、どう変化していったのだろうか。
■土偶が作られ始めたのはいつ頃か?
日本列島域における発生期の土偶は、大きな乳房をもつ、直立した女性のトルソーとして出現した。現在のところ最古段階の土偶で、1万3000年前の縄文時代草創期のものとされる滋賀県相谷熊原(あいだにくまはら)遺跡出土の事例では、顔や腕、脚はないが、大きな乳房とくびれた腰、そして下半身があれば、お腹が大きかっただろうというフォルムをもっている。
また、ほぼ同時期の三重県粥見井尻(かゆみいじり)遺跡出土の事例も、顔面表現はないものの、肩から腰までのライン、そして一対の乳房が表現されている。縄文時代は定住生活が開始された時代であり、草創期はその最初期にあたる。つまり、定住生活の始まりと共に土偶が出現したことになる。
■土偶出現の背景
定住生活が始まり、それが進展すればするほど、そしてそれと連動して人口数が増加し、人口密度が上昇してくるほど、移動生活を行っていた時には問題とならなかったような、様々な社会的問題が生じてくる。
例えば食料の問題である。食料のほとんどを自然に依拠(いきょ)していた縄文時代の人々にとって、集落周辺の食料の増減は最大の関心事のひとつであった。しかしながら、集落周辺にいつも十分な量の食料があるとは限らない。そこで人々はハード・ソフトの様々な面から技術改良を行うと共に、「祈る」という優れて観念的な方法で様々な問題の解決を図ろうとしていた。その際に用いられたのが土偶や石棒といった呪術具だったことは、想像に難くない。
■時期や地域によって変わっていった土偶の造形
定住生活が進展すると、各地における自然環境に適応した地域差が発現してくるようになる。縄文土器の型式が時期・地域によって多様化するのはそのためであり、土偶もまた例外ではなかった。
草創期に女性のトルソーとして出現してきた土偶は、早期になってもその形状を大きくは変えなかったが、定住生活が進展し、地域性が顕在化する中期以降になると、土器型式に対応する形で、各地で多様な土偶の造形が見られるようになる。
例えば関東西部から中部山岳地域における広義の勝坂(かつさか)式土器を出土する地域では「縄文のビーナス」をはじめ、腹部を膨隆(ぼうりゅう)させた土偶が多くなるし、後期の関東地方では「山形土偶」や「みみずく土偶」と呼ばれるものが連続的に出現する。晩期の東北地方には特徴的な目をした遮光器土偶が登場するなど、土偶の時期差・地域差はまさに多様である。
監修・文/山田康弘