中国三大美女で様々な中国ドラマで描かれた絶世の美女「西施」とは⁉
中国時代劇ドラマと史実
■中国史で「美女」の代表格として名が挙げられる傾国の美女

范蠡の像。山東省肥城県の范蠡祠に立つ。
中国三大美女と言えば春秋時代の西施(せいし)、後漢末の貂蝉(ちょうせん/架空の人物)、唐代の楊貴妃(ようきひ)の3人である。いずれ劣らぬ傾国・傾城の美女。彼女らが登場する映画やテレビドラマの制作発表が行われるたび、どの女優が演じるのかに注目が集まる。
今回取り上げる西施は前5世紀初頭、越の国(現在の浙江省一帯)の生まれ。幼い頃から美貌でもって知られ、川で洗濯をしていたところをスカウトされ、宮中で歌や楽器、舞踊、礼儀作法などをみっちり仕込まれたうえで、呉の国に贈られた。
これより前、越王・句践(こうせん)は呉王・夫差(ふさ)を相手に大敗北を喫し、屈辱的な和議を結ばざるをえなかった。以来、句践は並べた薪を寝台代わりとし、頻繁に肝を嘗めることで屈辱を忘れまいとした。軍事力の増強と人心の収攬にも力を入れるが、呉の力を削がないことには勝ち目がない。そこで重臣の范蠡(はんれい)の策に従い、夫差のもとへさまざまな宝物とあわせ、とびきりの美女を贈ることにした。このとき白羽の矢を立てられたのが西施だったのである。

呉王夫差の像。江蘇省無錫市の泰伯廟に立つ。
西施に与えられた任務は夫差の心を虜にし、政治を疎かにさせること。そうすれば、伍子胥(ごししょ)に代表される重臣たちと夫差の間、呉国の民と夫差の間にひび割れを生じさせ、国力を大幅に削ぐことができる。越に対する警戒心まで解消させられれば、なおのことよかった。
果たして、西施は任務をやり遂げ、句践は呉を滅ぼすことに成功する。その後、西施は句践の妃から、句践をも虜にするのでは警戒され、用済みの危険分子として抹殺されたとも、政界からの引退を決めた范蠡と結ばれ、幸せな余生を送ったとも伝えられる。
これら「呉越興亡」と総称される一連の出来事は非常にドラマチックなため、何度も映像化されてきた。2007年制作の『復讐の春秋 臥薪嘗胆』(原題は『臥薪嘗胆』)では台湾の安以軒(アン・イーシュアン)、同じ年制作の『燃ゆる呉越』(原題は『越王勾践』)では大連出身のチョウ・ヤン(ユウ・ヨンとも。周揚)、2010年制作の『孫子大伝』(原題は『孫子〈兵法〉大伝』)では貴州省出身のバン・ジャジャ(班嘉佳)、2012年制作の『女たちの孫子英雄伝』(原題は『英雄』)では湖南省出身のインアル(颖儿)と、『燃ゆる呉越』を除けば、西施を演じた俳優はみな西施と同じ南方出身者だった。
中国では食文化だけでなく、顔立ちや骨格などの面でも南北間の違いが大きいため、よほどの事情でもない限り、北方出身者に西施役をやらせるわけにはいかなかったのかもしれない。ちなみに、チョウ・ヤンの場合、国際的にも知名度の高い映画監督チャン・イーモウ(張芸謀)の秘蔵っ子というだけで、クレームを未然に防ぐ効果が期待できた。
2007年は香港制作の『争覇 越王に仕えた男』(原題は『争覇伝奇』)という作品もあったから、「呉越興亡」の当たり年と言ってもよい。視聴者の一番の関心は、西施がどのような手練手管で夫差を惑わすのか、作戦はすんなり運ぶのか、任務達成後の彼女がどうなるかといった点だったと思われるが、実のところその詳細については、想像や創作の入る余地が十分にあった。「呉越興亡」に関する一級史料である司馬遷の『史記』やそれに先立つ歴史書の『国語』『左伝』にも西施の名が出てこないからである。
思想書の『墨子』や『荘子』には出てくるが、美女の代表格として名が挙げられているだけで、呉越興亡への関与について一言も語られていない。西施を外交の道具、現在で言うハニートラップ要員として詳細に描いたのは、後漢初期に編纂された歴史書『呉越春秋』が最初だった。
つまり、実際の西施は生没年不詳なら、実在したかどうかも怪しいが、傾国・傾城が絶世の美女の絶対条件であれば、バッドエンドかハッピーエンドかに関係なく、西施の生涯は波乱万丈でなければならなかった。美女は美女でも、絶世の美女ともなると大変である。