最古級の銅鏡が出土した「安満宮山古墳」の謎
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #076
今から約四半世紀前に、大阪府高槻市の山の中腹にある安満宮山(あまみややま)古墳から、国内最古級の銅鏡が発見された。銅鏡に記された最古級の年号は、同古墳の製作年代を考察するヒントとなる一方で、謎も残しているという。前回に続いて、弥生時代と古墳時代の境目について考察する。
種類の異なる5枚の青銅鏡が発見される

銅鏡が出土した状況を展示したもの(筆者撮影)。貴重な銅鏡は布に包まれていた痕跡がある。よく見ると木片もあり、木棺墓であったことが伺える。
3世紀半ばに、現在の大阪府高槻市御所の町(ごしょのちょう)に造営された安満宮山古墳は、山の中腹の実に景色の良い場所にあります。眼下には安満遺跡という弥生時代初期に始まる大環濠集落遺跡が見えます。

GoogleMapを筆者が加工(大阪府高槻市安満宮山古墳)。
ここに埋葬された人物は、おそらく安満集落の王だったのでしょう。内部には割竹型木簡(わりたけがたもっかん)が埋葬されていて、真っ赤に朱が塗られた立派な土壙墓(どこうぼ)です。
実はここから、とんでもないものが出土したのです。それは布に包まれた痕跡のある、種類の違う5枚の青銅鏡でした。1997年(平成9年)の発掘調査で、青銅鏡が5面、ガラス小玉が1600個以上、そして刀や斧などの鉄製品が発見されました。

安満宮山古墳を築造当時の姿に復元・公開している施設「青龍三年の丘 安満宮山古墳」内にある、 5枚の銅鏡レプリカを展示したモニュメント(筆者撮影)。奥のガラスケース内には土壙墓を展示している。
出土した鏡の一枚に「青龍三年」と中国の年号が明記された物がありました。この年号は西暦235年です。それは『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』の卑弥呼(ひみこ)女王の使者が魏の皇帝に謁見する4年前の年号です。この鏡の学術名は「方格規矩四神鏡(ほうかくきくしじんきょう)」といいます。現在のところ、日本列島で出土した銅鏡として最古の年号なのです。

青龍3年紀年銅鏡(レプリカ・筆者撮影)。
鏡が製造された西暦235年以降にこの古墳が造られ、副葬品として鏡が埋納されたことになります。
そして、発掘の結果出土した他の埋蔵物の調査から、250年以降のそう遠くない270年ぐらいまでの時代の埋納だろうと推測されているそうです。
出土した銅鏡は、代々受け継ぐ宝物でもあるため時代の特定が難しく、また長距離の運搬が可能なため、王家の引っ越しなどによって運ばれた可能性もあるわけです。
ですから、鏡などの出土地とその製作地や受領地を特定するのは非常に難しいのですが、この鏡は中国魏の年号が記されていますので、製作年が特定できます。そして安満宮山古墳の築造年代もほぼ判明していますので、鏡の製造からそれほど遠くない時に副葬されたことがわかります。これは非常に重大な情報です。
また、この鏡が中国製であるなら、『魏志倭人伝』の「銅鏡百枚を卑弥呼に贈る」という記述が頭をよぎります。
さて、ここで私が問題にしたいのは邪馬台国の卑弥呼がどこにいたのかではありません。弥生墓と古墳の境目を探りたいのです。この安満宮山古墳は、3世紀後半の長方形墳で石槨(せっかく)の無い土壙木棺墓(どこうもっかんぼ)ですから、弥生墓といって差し支えないと思います。
しかしながら、弥生墓か古墳かを判断する基準は墳型も大切ですが、副葬品も判断の基準になります。
この古墳からは前述の通り、5枚の中国鏡と大量のガラス玉、そして鉄斧鉄剣が出土しています。重要なのは銅鏡、その中でも重要なのは二面の「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」と「鉄斧」です。少なくともこの二つは弥生墓には副葬されません。この二つが出てくるということは、すでに古墳文化圏に時代が移っているとみて良さそうです。
また、銅鏡を5枚もどういう経路でこの被葬者が手に入れたのか、興味を惹かれます。魏の皇帝から卑弥呼に贈られた鏡は、当時の中国で製造されたトップクラスのさまざまな種類の工芸品を選んで卑弥呼に贈ったのではないかと考えられています。
安満宮山古墳と同じ、大阪府高槻市の周辺で巨大な遺跡といえば、奈良県の纏向(まきむく)遺跡がすぐに思い浮かびます。すると、卑弥呼のいた邪馬台国はやはり大和にあったのか!と考えたくなりますが、それはまだまだ早計です。
ただ、安満宮山古墳に貴重な5枚もの鏡と共に埋葬された人物は、水稲耕作(すいとうこうさく)技術に長け、淀川水運にも長けたグループの総帥だった可能性はあります。まだまだ謎は深まるばかりです。

安満宮山古墳から眼下に見渡せる当時の環濠集落(筆者撮影)。