「三河一向一揆」勃発は家康の挑発によるものだった?
史記から読む徳川家康⑧
一向宗蜂起の理由については諸説ある。
佐崎城(ささきじょう/愛知県岡崎市)城主で家康の家臣である菅沼定顕が、上宮寺(愛知県岡崎市)から米を強制徴収したことをきっかけ(『参州一向宗乱記』)とする説が一般的だ。『東照宮御実紀』では、「此ほど小坂井。牛窪辺の新塞に粮米をこめ置るゝに。御家人等佐崎の上宮寺の籾(もみ)をむげにとり入たるより。一向専修の門徒等俄に蜂起する事ありしに」と記されている。今川氏との内通が疑われた上野城(愛知県豊田市)の酒井忠尚(さかいただひさ)による、万一の反乱に備えるための方策でもあったらしい。
当然、不入の権という特権を与えられていた上宮寺は承服せず、同じ一向宗の勝鬘寺(しょうまんじ/愛知県岡崎市)、本證寺(愛知県安城市)とすぐさま連携。「一宗の門徒僧俗、いまは宗門破滅の時いたれり。此方より一揆を起し、仏教を退治せずんばあるべからず」(『三河後風土記』)と決起した。
別の説によれば、1562(永禄5)年に、野寺の寺内(本證寺)に悪者がいたのを、酒井雅楽助(正親/まさちか)が押し込んでつかまえたことがきっかけとなり、翌年正月にあちこちの門徒衆が一揆を起こしたとする(『三河物語』)。つまり、犯罪者を捕らえるのに治外法権となっている寺内に松平家家臣の酒井正親が立ち入ったことを不服として蜂起したとする説だ。
あるいは、本證寺の境内にいた商人・鳥井浄心と岡崎の侍衆との間に諍いが起き、紛争の火種となった、とするものもある(『参州一向宗乱記』)。
いずれにせよ、不入の権とは納税の免除や警察権の排除などの特権のことであり、それらを家康が侵したことによる反乱が「三河一向一揆」ということになる。
ただし、「三河一向一揆」は単に「松平家」対「一向宗」という構図だったわけではない。同じ浄土真宗の高田派が家康方についているし、一向一揆側は「義昭をすすめて、御主となさんといいければ」(『三河物語』)と、今川義元(いまがわよしもと)亡き後、家康と度々戦火を交えていた今川方の吉良義昭を一揆方に引き込んでいる。
なお、一揆方は家康の旧主である今川氏真(うじざね)にも共闘を呼びかけたが、ここでも氏真は動かなかったという。氏真にとっては家康を討ち取る絶好の機会だったが、ここでもみすみす好機を逃していたようだ。
加賀では、領主を追い出すほどの勢いを持った一向宗の性格を家康が知らなかったはずはない。そのため、家康はあえて一向宗を一揆にけしかけるために挑発したのではないか、との見方もある。
その目的はもちろん、三河統一のためだ。当時の家康は、三河国西部の平定をほぼ終えており、残る三河国東部の反抗勢力に目を向けていた。しかし、軍資金の不足に苦しんでいたため、ヒト、モノ、カネの集まっていた一向宗寺院の経済圏を根こそぎ奪うことを画策した。
また、独自の自治国家を形成していた一向宗を放置しておくことは、自領内に権力の空白地帯を生むことに他ならない。自身の権威で三河すべてを塗りつぶすべく、門徒らに圧力をかけて合戦に持ち込んだ、という。
家康にとって、一向宗の蜂起は狙い通りだったが、吉良義昭、荒川義広(あらかわよしひろ)、酒井忠尚、松平昌久(まつだいらまさひさ)といった武士勢力の結託は想定外だったと考えられている。彼らの蜂起は「私欲貪邪のため、大倫を忘れた」ものといわれた(『三河後風土記』)が、自身の家臣も少なからず一向宗側につき、戦闘で相当苦しめられたことも合わせて考えると、家康がわざと一向衆徒を刺激したとするのには疑問も残る。
いずれにせよ、三河統一を目指す家康にとって、一向宗との対決は遅かれ早かれ直面するはずのものだったことは間違いない。
なお、「三河一向一揆」は、のちに見られる「三方ヶ原(みかたがはら)の戦い」「伊賀越え」にならぶ、家康の生涯における三大危機のひとつとされている。
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