今川氏真が直面した領国経営の「選択」と「集中」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第4回
■甲相駿三国同盟の維持のため選択と集中を行う
氏真は、桶狭間の戦いで大きく減少した戦力と財力を、効果的に運用する必要に迫られます。限られた戦力を、本拠地の駿河周辺を安定させる戦略を取ります。
まず甲相駿三国同盟の維持を優先し、北条家と上杉家の戦いに援兵を出し、外交関係の良好化に努めます。
一方、手薄になる三河には、家康を岡崎城に帰還させて信長への対策としました。しかし、三河方面での今川家の弱体化を間近に見て、逆に家康は独立を図ろうとします。
氏真も安堵状を出して人心の掌握に取り組みますが、三河国人たちの不満の噴出は止まりません。その上、新たに人質を要求した事が悪手となって、三河地方は徳川家康を旗頭に独立してしまいます。
氏真による選択と集中が、この場合は裏目に出てしまいました。この失敗の原因は家康という人物の評価を読み間違えてしまった事にあるのかもしれません。
さらに、この三州錯乱(さんしゅうさくらん)と呼ばれる反乱に呼応するかのように隣国の遠江でも離反の動きが起こります。
■武田信玄の徹底した選択と集中
氏真は三河を放棄し、今川家の戦力を遠江に集中させます。これにより国衆による反乱(遠州忩劇・えんしゅうそうげき)を力づくで抑えこむことに成功しました。
そして、用水路の整備や徳政令の発令など、内政における課題にも積極的に取り組んでいきます。また、信長よりも早い段階で、領国内の市を楽市とするよう命じています。
氏真による戦略により、領国の安定化に一時的に成功します。
しかし、一連の三河地方の放棄、遠江の争乱を見て、武田信玄が調略を仕掛けてきました。信玄による選択と集中は徹底しており、氏真の妹婿である嫡子の義信(よしのぶ)を自死させてまで、戦略の転換を図っています。
信玄は駿河を手中にするため「甲相駿三国同盟」を破棄し、織田家との同盟に舵を切り、これまでの関係性よりも実利を優先させました。選択と集中には、これぐらい徹底した非情さが重要なのかもしれません。
今川家の本拠地である駿河は、家臣の離反が相次ぎ、大きな抵抗もできないまま攻略されてしまいます。氏真の選択と集中は裏目に出てしまいました。
嫡子をも犠牲にする信玄の方がやはり上手でした。
■選択と集中という経営判断の難しさ
氏真は京文化に傾倒し、内政を疎かにして国を滅ぼした無能な戦国武将ではなく、自ら限られた経営資源で領国経営に取り組んでいました。ただ、戦国時代を代表するリーダーに囲まれてしまうという時期的、地理的な不運さもありました。
もし、氏真が信玄打倒の意気込みで義信事件に積極的に介入していれば、また状況は違ったものになっていたかもしれません。
しかし、その場合への対応も信玄なら想定していた可能性は高いでしょう。結果的に、氏真は国を失いますが、それは時期が早いか遅いかの違いでしかありませんでした。その後、武田家も北条家も滅ぼされています。
現代でも、選択と集中の判断は非常に難しいものです。短期的には成功しても、長期的には失敗となる事例の方が多いかもしれません。環境や市場の変化に左右される点は、今も昔も同じようです。
その後、今川家は氏真が京都に流転し、朝廷や公家とのネットワーク構築に成功していたおかげで、徳川幕府から高い評価を受けることになります。
これは結果的に氏真の得意分野に選択と集中ができたからとも言えそうです。そして、今川家は高家として重要な朝幕間の諸礼(しょれい)を司りながら、幕末まで存続しました。
江戸末期には、同じ高家の武田家を石高で上回る事になるので、歴史とは面白いものです。
- 1
- 2