数万の民間人が戦場をさまよった沖縄戦とその結末
沖縄戦と本土決戦の真実⑧
日本の特攻機に誤認され攻撃された民間人収容施設

沖縄戦において、隠れていた壕からでてきた人々。昭和20年(1945)4月、米軍により撮影された。アメリカ公文書館所蔵
米軍は戦闘部隊の沖縄上陸と同時に、占領地を統治する軍政府の要員も上陸させていた。そして上陸直後の4月5日には早くも読谷村(よみたんそん)の比謝(ひじゃ)に軍政府を設立し、保護した住民の収容などの活動を開始した。住民の中で早い者は米軍上陸と同時に保護され、軍政府が設立されたときにはすでに1500名以上の住民が楚辺(そべ/読谷村)、砂辺(すなべ/北谷村)の収容所に入れられていた。
日米の主力が激突し、嘉数(かかず)や浦添(うらぞえ)の高地をめぐって激しい争奪戦を展開し始めると、日本軍は陸戦を擁護するために、本土九州から発進する特攻機の体当たり作戦を開始した。
これらの特攻機は米軍に占領された読谷飛行場も目標にしており、住民が収容されている楚辺や砂辺の収容所にも超低空で突っ込んできた。そして同胞とも知らずに死に物狂いの攻撃をしかけてきた。住民たちは日米両軍の攻撃の狭間で、死傷者を続出させていた。
米軍は日本兵と一般住民を厳密に分けて収容していた。兵士はPW(戦時捕虜)、住民はCIV(CIVILIAN=民間人)と書かれた上着を与えられた。
ところが、日本軍の壊滅が時間の問題になってきた昭和20年6月になると、軍服を脱ぎ捨てた日本兵が住民の間に紛れ込むようになってきた。そこで米軍のMP(憲兵)たちは兵士らしい男を見つけると素っ裸にし、
「うちなーんちゅや、せーなま、うまうてい、じーん、かい、いれー(沖縄人は、今、そこで、地べたに、座れ)」
と方言で言わせたという。モゴモゴして言えない者は日本兵と判断して、即刻、PW専用の収容所に入れられた。
壕から追い出され戦場を彷徨う沖縄県民たち
戦闘が南部に移ると、保護される住民の数も膨大になり、収容所も決して安全地帯ではなくなった。そこで米軍はこれら南部の住民を北部の久志村などに移動させることにしたのだった。そして中城湾に面した与那原に集められた人々は、大型上陸用舟艇LSTに詰め込まれ、行き先も教えられずに港を後にした。
「太平洋の真ん中に捨てられるらしい」
というデマが飛んだのもこのときだったという。だが、3時間後、LSTは再び沖縄の港に入り、住民たちをホッとさせたのだった。
しかし、これら米軍上陸地の読谷村地区にいた住民は、不幸中の幸いだった。
逆に南部に退却する首里地区の日本軍に同行した数万の住民は、文字通り生死の境を彷徨(さまよ)う戦場の凄惨を味わうこととなった。当然のことだが、日本軍や住民の撤退行の最中にも米軍の砲撃は止まなかったし、追撃も続けられていた。また、将兵の多くが重傷を負っての退却であり、ほとんどが満足な食糧もなかった。
住民たちは、当初は兵隊さんと一緒の方が安全だと信じていたが、やがて各地で避難する自然壕の奪い合いが始まり、軍と住民の争いが多発しだした。住民と部隊が同じ壕の中に身を潜めるということも珍しくなかったが、最後は住民を追いだして兵隊たちが壕を占拠するケースが続出していた。
赤ん坊の泣き声を制されて、母親自ら嬰児(えいじ)の口と鼻を押さえ、窒息死させたという悲惨な光景が見られたのも、この頃だった。
また日本軍には県民男子約2万5000名が防衛隊や義勇隊の名目で配属された。その中には鉄血勤皇隊(てっけつきんのうたい)という中学上級生、師範学校生徒を中心とした部隊も含まれていた。高女生の「ひめゆり部隊」なども前線に配置された。そして、これら市民のうち約2万名が戦場に斃れた。
部隊が首里から撤退を始めたころ、首里や那覇にはまだ30万という住民が疎開できずにおり、軍とともに摩文仁(まぶに)へ待避を始めた。その待避途上での犠牲者が多かったと言われている。
監修・文/平塚柾緒