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呉の国の基礎をつくった孫策の暗殺には「宗教団体」が関わっていた?

ここからはじめる! 三国志入門 第59回


孫策(そんさく/175200)は三国時代の一角、呉の礎を築いた人物だ。10代で軍勢を率い頭角を現し、わずか数年間で江東地方を制圧した名将であったが、道なかばで倒れ、26歳の若さで散った。突然の最期には、いかなる理由があったのか。歴史書(正史『三国志』)を中心に紐解きたい。


 

中国湖北省武漢市にある孫策の像。左は孫権。撮影/上永哲矢

■天性の戦上手、カリスマ性で快進撃

 

 魏・蜀・呉の三国の一角、呉の君主・孫権(そんけん)が統治していた領土のほとんどは、彼の兄・孫策の代に獲得されていた。孫権はそれを継いだにすぎない。魏の事実上の創業者が曹丕(そうひ)ではなく、父・曹操(そうそう)だったのと同様、呉の創業者も孫策と言ってよい。

 

 その孫策だが、彼はとにかく戦(いくさ)に強かった。武勇も統率力も抜群。その強さは、黄巾(こうきん)の乱や董卓(とうたく)軍との戦いで大戦果を挙げた父親の孫堅(そんけん)譲りと思われる。一説に、呉郡の孫家は「孫子兵法」で知られる孫武(そんぶ)の末裔といわれていたが、あながち間違いではなかったのかもしれない。

 

 しかも美男で話し上手。性格はおおらかで包容力があり、人を使うのもうまかったという(美姿顏、好笑語、性闊達)。出自は怪しくとも、彼の周りに人が集まってきたのは頷ける話だ。ところが、この一族には共通の欠点があった。三国志本文に「輕佻果躁」とある通り、軽はずみで注意力に欠けたのである。

 

 その象徴が195年、単騎で偵察に出ていた太史慈(たいしじ)とバッタリ出くわし、一騎打ちに応じてしまった逸話である。この戦いは小説(三国志演義)のみならず正史にもあり、孫策の武勇伝だが、一軍の総大将としては軽はずみといえよう。取っ組み合いのさなか、両軍の兵が来て引き分けたが、そのまま続いていたら孫策は討たれていた可能性もあった。

 

 しかし、周りの気苦労も何のその、孫策は劉繇(りゅうよう)、王朗(おうろう)、劉勲(りゅうくん)といった諸侯を次々と撃ち破り、領土を拡げていく。とくに劉勲の討伐戦では、鮮やかな手並みを見せた。劉勲は実力者で、大勢力を誇った袁術(えんじゅつ)の死後、その残党らが、こぞって彼を頼ったという。まともに攻めるのは愚策とみて、孫策は一計を案じた。

 

「上繚(じょうりょう)に、一万余戸を構える宗民(そうみん=宗教勢力か?)を協力して討ちましょう」と持ちかけ、応じた劉勲が拠点の皖(かん)城を開けた隙に、これを奪ったのだ。汚いやり方だが、乱世では常道。かの大喬(だいきょう)・小喬(しょうきょう)の姉妹を手に入れ、周瑜(しゅうゆ)と分け合って妾(めかけ)にしたのもこの時のこと。こうして旧袁術軍の残党も、孫策はそっくり手に入れた。

 

■北上を見据えたタイミングで暗殺

 

 しかし、そんな孫策の行く手に暗雲が立ち込める。きっかけは呉郡太守・許貢(きょこう)の殺害だ。あるとき許貢は、急激に勢力を伸ばす孫策を警戒し、朝廷に対して「孫策は傑出した勇武の持主で、項羽(こうう)に似ています。地方に放っておけば禍いとなりましょう」と上表。これを知った孫策は激怒して許貢を殺害してしまった。

 

 もちろん許貢にも縁者がいる。彼の息子(末っ子)は、父の食客の手を借りて密かに逃れ、復讐の機をうかがう。すると、ほどなく好機が到来。ノコノコと単騎で出ていた孫策と、許貢の食客がばったり遭遇。油断していた孫策は致命傷を受け、まもなく息を引き取った。折しも曹操が袁紹(えんしょう)との激戦(官渡の戦い)に臨むところで、孫策はその背後を突こうと画策していた。まさに「これから」というタイミングで退場してしまうのだ。

 

 孫策を討った、手練れと思われる食客の名前は伝わっていない。待ち伏せしていたのかもしれない。護衛の周泰(しゅうたい)は、すでに孫権にSPとして張り付いていたし、防ぐすべもなかった。

 

実在の道士・于吉は、孫策の死に関与したのか?

 

 小説『三国志演義』では、この孫策の死にアレンジが加わる。それが于吉(うきつ)という道士の出現である。于吉は不思議な術を使い、民の人気を集めた。それを妬んだ孫策は彼を殺してしまい、その亡霊に悩まされる。刺客に襲われるのも于吉の祟りだったかのように描かれている。だがこの話、まったくの作り話でもなく、正史『三国志』に引用される『捜神記』(そうじんき/4世紀の怪異譚)にも同様の話がある。

 

 複数の歴史書に登場する于吉は、実在した人物と思われる。先の連載に紹介した太平道(たいへいどう)の張角(ちょうかく)、五斗米道(ごとべいどう)の張魯(ちょうろ)と同門あるいは先輩かもしれない。

 

 于吉は道教の修行をし、神書『太平清領道』百余巻を手に入れた。のちの寺院のような精舎(しょうじゃ)を建て、香を焚き、符や神聖な水を用いて病気の治療は、太平道などと同様の呪(まじな)いと思われる。

 

 先に述べた劉勲討伐の話に「宗民」という1万余の戸数を構える勢力が登場する。「宗民」が宗教勢力であったのか不明だが、そのような独立勢力がいたのは事実であった。孫策は躍進のなかで、ただでさえ敵を多くつくっていた。

 

 あくまで仮説ながら、許貢の食客とは彼ら信者が放った「刺客」であり、「于吉」とは信者の象徴的な存在だったのかもしれない。英雄孫策も宗教勢力とは無縁ではいられず、彼はそれをうまく制御できなかった。それが若さゆえの最期となってしまった、というのは考えすぎであろうか。

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上永哲矢うえなが てつや

歴史著述家・紀行作家。神奈川県出身。日本の歴史および「三国志」をはじめとする中国史の記事を多数手がけ、日本全国や中国各地や台湾の現地取材も精力的に行なう。著書に『三国志 その終わりと始まり』(三栄)、『戦国武将を癒やした温泉』(天夢人/山と渓谷社)、共著に『密教の聖地 高野山 その聖地に眠る偉人たち』(三栄)など。

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