三国志に見る新興宗教。英雄・曹操は「政治と宗教」を、どう考えたのか?
ここからはじめる! 三国志入門 第58回
昨今、カルト教団や新興宗教という単語が、ニュースなどに飛び交っている。とかく権力者が特定の宗教に染まることや、教団の巨大化が危惧されるのは、それらが政治の方向性や国家運営すら左右するという考えからでもあろう。1800年ほども前の「三国志」の時代にも、やはり宗教が歴史の流れに大きく関与した例が見られる。歴史書(正史)をもとに紐解いてみよう。

三国志の時代、道教教団の指導者として世に出た張魯。
連環図画三國志(上海世界書局 中華民国16年)より
黄巾の乱を起こした「太平道」の実態
一度でも三国志に触れた方は「黄巾(こうきん)の乱」をよくご存じかと思う。西暦184年、中国大陸で起きた民衆反乱は後漢王朝に大きな打撃を与え、のちの三国時代に繋がる群雄割拠の世を生んだ。乱に加わったのは「太平道(たいへいどう)」という宗教の信者たち。彼らは黄色い布を目印にしたため、黄巾党とも呼ばれた。信者の多くは困窮や病苦などから救われたい一心だったと考えられる。
太平道は現在の「道教」の原型といわれ、その教団の開祖は、張角(ちょうかく)という人物だ。病人に過去の過ちを懺悔(ざんげ)させ、符水(護符を入れた水)を飲ませて治した。やがて、その信者は10年ほどで数十万人に達したという。
それだけならば、張角は民の救世主で終わったのかもしれない。しかし、黄巾党は政治結社であった。「蒼天すでに死す、黄天まさに立つべし」とのスローガンから分かるとおり、国家転覆を狙っていた。張角は腹心の馬元義(ばげんぎ)らを都へ潜ませ、役人たちを抱き込んで内と外から武装蜂起し、都を乗っ取ろうとしたのだ。
『後漢書』によれば、帝のそばにあった宦官(かんがん)で最高権力者の地位にいた張譲(ちょうじょう)までが、黄巾党と通じていたというから恐ろしい。結局、この計画は決起直前にバレて、馬元義は処刑されるが、各地の黄巾党勢力が決起した。当時30歳で脂の乗り切った曹操(そうそう)も、この鎮圧に参加して、さらに名を挙げている。
多くの人が救いを求め、大軍を抱えた五斗米道
その後、張角は病死。黄巾の乱も鎮圧されて太平道は下火になったが、中原から西南に位置する漢中(かんちゅう)では「五斗米道」(ごとべいどう)という新興宗教が盛んになっていた。開祖の張陵(ちょうりょう)の孫、張魯(ちょうろ)が指導者の地位にあり、組織としては太平道よりも洗練されていた。
この五斗米道も、信者に罪を懺悔させて病を治す「まじない」を行なうなど、教義や活動は先の太平道と同じく救民救済であったようだ。そもそも両派は発祥が同じで、枝分かれして別の組織になったとみられる。信者の行き来もあったのかもしれない。
当時、中国の信仰といえば孔子を始祖とする「儒教」で、それが漢の国教でもあった。加えて始皇帝が不老不死を信じた神仙思想(しんせんしそう)などがあり、それらが交じり合って、道教の原型がつくられていったと考えられる。
少々変わっていたのが、5斗の米をお布施として信者に納めさせるというルールだ。当時の1斗は約2リットルに相当した。入信するには、9~10リットルという、かなりの量の米が必要だった。
ただ、教団はそれを独り占めせず「義舎」という建物を領内各地に設け、その中に食物を満載し、領民や旅人にふるまった。飢えた人が集まり、人が人を呼んだ。さらには軍兵も多く抱える一大勢力となった。曹操に敗れた馬超(ばちょう)、龐徳(ほうとく)などの猛者たちも、張魯のもとに身を寄せたほどである。
曹操は、五斗米道をどう扱ったのか?
さて、一大勢力となった五斗米道だが、いよいよ215年に曹操の侵攻を受けた。漢中は、かつて劉邦が建てた「漢」の発祥地で、その入口にある陽平関(ようへいかん)の要害ぶりは曹操軍の手を焼かせ、一度は撃退にも成功した。ただ、結果的に陽平関は破られ、張魯は戦いが長引くのを避けて降伏。漢中を曹操に明け渡した。
張魯は翌216年に没したが、彼の息子らも列侯に取り立てられる厚遇を受け、張魯の娘は曹宇(そうう)の妻に迎えられた。その後、五斗米道の教団がどうなったかは不明だ。忘れてはならないのは、曹操は黄巾の残党(青州兵)を自身の直属軍に加えていた。彼らには信仰の自由を保証していたと思われ、五斗米道も同様に扱ったと見るべきだろう。
曹操といえば、才能第一主義や文学を生かした人材登用に取り組むなどの斬新な政治を行なったことで知られる。彼は漢代の儒教思想に基づく旧弊からの脱却を図ったが、儒教を徹底的に潰したわけではなく、悪い部分を否定したに過ぎない。
また当時は、インドから来た「仏教」が広まり始め、唐の時代に隆盛した(後に弾圧)。曹操の政治姿勢が儒教の地位を相対的に引き下げ、それが後世の道教や仏教の広まりに、いくらか影響を及ぼしたのは確かだろう。
ただし、曹操本人は宗教に染まることはなかった。宗教や信仰は政治の道具と考えていたのか、張魯を厚遇はしても教義を政治に絡めていない。「政教分離」を徹底していたといえるかもしれない。
日本の権力者も様々だが、熱心に仏教を広めながら自分は出家せず政治家であり続けた聖徳太子がいた。また、キリスト教の布教を認めつつ、自身は染まらなかった織田信長もいた。信長は比叡山を焼き討ちしたが、仏教自体を弾圧したのではなく、ただ抵抗勢力を討ったに過ぎない。その点で曹操と近い部分がありそうだ。宗教と政治の在り方を歴史から考えるのも興味深い。
道教に発展したと伝わる張魯の教え
なお、張魯の教えは、脈々と続いて現在の「道教」に発展したといわれている。中国の正一教(しょういつきょう)が、その後進として伝わっていて、張天師と呼ばれる指導者は「張」姓である。
道教は日本人に馴染みが薄いが、80年代に流行った香港映画『霊幻道士』がわかりやすい(古くて申し訳ない)。映画で妖怪キョンシーと戦うのが仏教でいう僧にあたる「道士」だ。中国には、街の至るところに祖霊を祀る祠廟があり、その多くは道教の神を祀ったものである。
日本の中華街には、三国志の英雄・関羽(かんう)を祀る「関帝廟」がある。道教の成立に深く関わった張魯は半ば忘れられ、宗教と関わりがなかった関羽が神として祀られているのは、どこか不思議な運命を感じてしまう。
(次回に続く)