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戦艦「大和」の“足”は速かったのか?遅かったのか?

「戦艦大和」物語 第7回 ~世界最大戦艦の誕生から終焉まで~


戦艦の性能をあらわす指標のひとつが速力だ。攻撃力、防御力が世界最強であった戦艦「大和」は、どれほどのスピードで航行できたのか。そのスペックを解説する。


太平洋戦争勃発の約1カ月半前の1941年10月20日、公試において航行中の大和。速力を上げているため船体が切った波が舷側にうち上がっているのが見える。

  1922年のワシントン海軍軍縮条約で定められた「ネイヴァル・ホリデー(海軍休日)」が明けると、列強は一斉に新しい戦艦の設計と建造に着手した。

 

 この時期に建造された戦艦を、「ネイヴァル・ホリデー」という長い停滞期の後に登場したという意味で、ひとまとめにして「新戦艦」と総称することがある。そしてもちろん、戦艦「大和」も新戦艦に含まれる。

 

 大和が備える「攻・防・走」のうち、「攻」の砲の威力も、「防」の装甲防御力も、新戦艦として世界最強であることはすでに記した。それでは、最後の「走」はどうだったのか。

 

 大和の最大速力は27ノット。これに対して、列強の新戦艦は次のごとくだ。

 

 アメリカのアイオワ級は33ノット、イギリスのキング・ジョージV世級は28ノット、フランスのリシュリュー級は32ノット、ドイツのビスマルク級は31ノット、イタリアのヴィットリオ・ヴェネト級は31.5ノット。

 

 つまり、新戦艦の中で大和は一番遅いことになる。ただし1ノットしか差がないキング・ジョージV世級にかんしては、ほぼ同速力と考えてよいだろう。

 

 ごく乱暴に言ってしまえば、どんな軍艦でも、速ければ速いことにこしたことはないのはいうまでもない。だが、機関の性能や機関関係に割ける艦内のスペースなどといった条件に、艦隊側のニーズも加味して速力は決まってくる。

 

 たとえば、戦艦は基本的に単艦で戦うことはほとんどなく、僚艦(りょうかん)と艦隊を組んで敵の艦隊と戦うが、その際に、1隻だけ飛び抜けて速い艦はいらない。なので、要求以上の速力を出すのに必要な艦内空間や重量は不要となるため、設計上その分を、搭載する兵器や燃料、防御装甲の充実に振り向ける、といったことも行われる。

 

 第2次大戦中期以降、高速の艦隊空母機動部隊の直掩艦(ちょくえんかん)として強力な戦艦の有用性が確認されたが、これは後から発見された運用方法であり、「ネイヴァル・ホリデー」明けの時点では明解にはなっていなかったので、この時点に建造された戦艦にそれを求めるのは無理がある。同時期に建造された戦艦ながら艦隊空母機動部隊の直掩艦に対応できたのは、たまたま高速化されていた艦だけだ。

 

 特に厳密な規定があるわけではないが、新戦艦という言葉と並んで、最大速力が30ノット前後の新戦艦を「高速戦艦」と通称することもある。だがその最大速力のせいで、大和が高速戦艦に含められることはない。

 

しかし艦隊空母機動部隊の直掩艦には使えなかったのかといえば、速力の面ではぎりぎり何とかなるので、結局、日本海軍による大和の「出し惜しみ」だったといえそうだ。

 

 

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白石 光しらいし ひかる

1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。

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