“主君ガチャ”はハズレも、秀吉~家康配下で生き抜いた武将を描く『脇坂安治 七本鑓と水軍大将』
福島正則、加藤清正と並ぶ「七本槍」の1人
日本史における最大の乱世と言われた戦国時代。
常識にとらわれない発想で新しい時代を切り開いた織田信長。農民の子とも言われながら「天下人」にまで大出世した豊臣秀吉。その豊臣氏を滅亡させ、日本全国を支配する体制を確立した徳川家康……。
この時代に天下を統一へ導いた三英傑の人生は、物語として読んでも胸躍るものがある。
一方で、主君を変えながら三英傑に仕え続けた武将の人生もまた、激動と波乱に満ちている。
『脇坂安治 七本鑓と水軍大将』(近衛 龍春/実業之日本社)は、実際にその三英傑のもとで戦国を渡り歩いた一人の武将の物語だ。
脇坂安治(わきざかやすはる/1554年~1626年)は、はじめは浅井長政(あざいながまさ)に仕え、浅井氏滅亡後は織田家に属した戦国武将。この時代の武将としては特段高い知名度があるわけではないが、秀吉の家臣時代には「賤ヶ岳(しずがたけ)の七本槍」の一人にも数えられている。
「賤ヶ岳の七本槍」とは、羽柴秀吉と柴田勝家が近江国伊香郡(現:滋賀県長浜市)の賤ヶ岳付近で起こした「賤ヶ岳の戦い」において、秀吉方で功名をあげた7人の武将の呼称。脇坂安治のほかにはあの福島正則、加藤清正らも名を連ねている。
そして脇坂安治は、同書の副題に「水軍大将」とあるように、その後には水軍を率いて朝鮮出兵にも参加していた。
『脇坂安治 七本鑓と水軍大将』には彼の生涯が約300ページの物語で綴られているので、その人となりや具体的な武功については、ぜひ本書を読むことで触れてみてほしい。
「生きてこそ忠義も貫けると申すもの」
脇坂安治の生涯は、『脇坂安治 七本鑓と水軍大将』の冒頭で本人が述懐するように、「一歩間違えば、いつ命を失っても可笑しくはなかった」もの。
戦国武将は合戦の場のみならず、主家の滅亡が迫ったときや、天下分け目の戦が行われるとき、たった一つ選択を誤ると命を落とすことになる。その点で、浅井家に仕えた脇坂安治が、江戸時代まで生き抜いたことは一つの奇跡ともいえる。
なお脇坂安治が織田家に仕えることになったときの、秀吉の以下の言葉は非常に含蓄のあるものだ。
「頭の固い輩じゃ。先が見えておらぬ。まあ、いずれ気づくであろう。気づかねば死ぬだけじゃ。死んでは花実は咲かぬ。生きてこそ忠義も貫けると申すもの」
(『脇坂安治 七本鑓と水軍大将』より)
現代の社会では「忠義を尽くした武将」の尊さが強調されがちだが、そんな綺麗事では生き抜けない厳しさが、脇坂安治の生きた戦国時代にはあったわけだ。
「主君ガチャ」に外れながら江戸時代まで生き抜く
織田家に仕えたのち、脇坂安治はかつての主君の小谷城(おだにじょう)を攻めることもあった。武功を挙げてからも、福島正則や加藤清正には「そちは親爺(秀吉)様に討たれた浅井の旧臣であろう。我ら尾張の者と一緒にするな」と言われることもあった。
今の世の中では「親ガチャ」という言葉が流行中だが、脇坂安治はいわば「主君ガチャ」ではハズレ側を引かされた武将。秀吉の家臣としても「吸収合併された弱小企業の残留社員」のような傍流の扱いだ。
だが脇坂安治は、同郷の大谷吉継(おおたによしつぐ)の「そちは虎ノ助(加藤清正)らに嫉妬しているようじゃが、無駄なことじゃ。縁(えにし)というものだけはどうにもならぬ。常に己を越えることを思案すべきじゃ」という言葉にも励まされ、“負けじ魂”に火を付けて奮闘を続けた。
そして身分の低い武士からスタートした脇坂安治は、秀吉に命を捧げる親衛隊にも名乗りを上げ、合戦の最前線に乗り出していく。自ら犯した失態の汚名返上のため、たった20人の家臣とともに、万余の兵がなければ攻略できない上野城の城攻めを決意したこともあった。
そんな「持たざるもの」の奮闘の物語は、格差社会の色濃さが増す現代に読むと、非常に胸に刺さるのだ。
また膨大な参考文献をもとに書かれた本書では、朝鮮出兵や関ヶ原の戦いの様子が非常に詳細に綴られているのも面白さの一つ。
朝鮮出兵は詳述されればされるほど、その厳しさが伝わるもの。いきなり水軍を任され、外国に打って出ることを命じられた武将の苦戦ぶりは、上層部の無茶振りに振り回される末端社員の物語を読むようだ。
「どちらに付くか」で命運が別れた関ヶ原の戦いも、社内の派閥争いのようにも読めてくる。
本書を読むと、歴史小説がビジネスマンに読まれる理由も非常によく分かり、「脇坂安治のような家臣の生き方からこそ、私達は学ぶべきことが多いのではないか」と感じるのだ。