明治末期に別府の観光開発を手掛けた油屋熊八。稀代のアイデアマンの生涯を描く小説『万事オーライ』
日本初のバスガイド付き観光案内の考案者
1940年に原著が出版され、日本でも知的発想法のロングセラーとなっている『アイデアのつくり方』(ジェームズ・ウェブ・ヤング/CCCメディアハウス)に「アイデアというのは既存の要素の組み合わせにすぎない」という言葉がある。
いかに突飛に見えるアイデアも、様々なデータを集めて、それを咀嚼し、組み合わせて生まれたものに過ぎない……と言われれば、「確かにそうかも」と納得が行く。
つまり、人とは違った物事を多く見聞きしてきた人は、世の中の一般の人には「奇想天外」に見えるようなアイデアを生み出せる可能性が高いわけだ。
日本を代表する温泉地・別府の観光開発を手掛けた油屋熊八(あぶらやくまはち/1863年~1935年)は、まさに人とは違う経験を重ねて、次々と新しいアイデアを生み出してきた人物だ。
油屋熊八は“別府観光の生みの親” “別府観光の父” と呼ばれる人物。今も観光コースとして有名な「別府地獄めぐり」で、日本初となる少女車掌(バスガイド)による観光案内をはじめたのが熊八だ。
そのほか熊八は「山は富士、海は瀬戸内、湯は別府」というキャッチフレーズも考案。日本ではまだ珍しかったゴルフ場を開き、温泉保養地とスポーツを組み合わせた新しいレジャーの形も提案した。そして自動車の発展を見越して、現在の九州横断道路(やまなみハイウェイ)の原型となる観光自動車道も提唱していた。
その生涯は、8月に発売された小説『万事オーライ 別府温泉を日本一にした男』(植松 三十里/PHP研究所)を読むとよく分かる。
相場師や渡米の経験が奇抜なアイデアの源泉
熊八の生涯は波乱万丈で、別府に移り住んだのは明治44年。48歳のときだった。
熊八はもとは米問屋の長男で、町議会議員だった時期もあれば、相場師として巨万の富を築いた時期もあり(その後は相場の失敗で全財産を損失)、アメリカを放浪した時期もあった。
『万事オーライ 別府温泉を日本一にした男』では、そうした彼の生涯が幼少期から描かれている。
そして彼が渡米中の描写では、色鮮やかな温泉の湧くイエローストーンという火山地帯の話を聞いていたことや、観光地として発展をはじめたハワイに訪れていたエピソードもあった。
そこには「熊八は、海を渡ってまで物見遊山に出かけるという感覚がピンとこなかった」という一文もあったが、そうした彼の「明治時代の普通の日本人はしていない経験」が、別府の観光開発に生かされていく様子が分かるのが、本書の読みどころの一つだ。
そして熊八が女性バスガイド案内付きの定期観光バスを日本で初めて生み出せたのも、「これからは自動車の時代が来る」という確信があったからだ。
地獄めぐりの観光コースを考案し、周囲から「こんな山の方まで人は来ない」と反対されたときも、熊八は「来ないからゆうて放っておかんで、来るように仕向けるんや」と言い放った。
時代の先を読み、常に投機的な生き方を続けてきた彼の生涯の物語は、冒険譚(たん)のようなスリリングさに溢れたものだ。
なお熊八は別府での仕事を旅館業からスタートしているが、そこでは「旅人をねんごろにせよ」(旅人をもてなすことを忘れてはいけない)という新約聖書の言葉を合言葉に、今で言う“ホスピタリティ”に溢れた旅館を営んでいた。
今や「お・も・て・な・し」は日本独自の精神のように語られがちだが、日本の旅館業や観光業も、そもそもは舶来のものなんだよな……とも本書を読んでいて気付かされたのだった。