戦国時代に“弁舌”で国を動かした板部岡江雪を描く小説『天下一のへりくつ者』
『歴史人』がいま気になる歴史小説・ 第4回
風魔小太郎、黒田官兵衛、伊達政宗ら戦国時代の奇人・異能者が大集結
戦国時代においては、武勇を天下に轟かせた名将や、策略の天才と言われた参謀など、合戦の場で華やかな活躍をした人物に人気が集まりがちだ。
武力で天下を目指せた時代ゆえ、それは当然のことなのだが、弁舌で人を動かし、外交で国を動かし、この国の歴史を変えた人物もいる。『天下一のへりくつ者』(佐々木 功/光文社)で主人公として描かれる板部岡 江雪(いたべおか こうせつ)はそんな人物の1人だ。
もともと真言宗の僧侶だった江雪は、その能筆を小田原北条氏三代目の氏康に見いだされ、右筆(秘書役を行う文官)として取り立てられる。和歌や茶湯にも通じた教養豊かな人物で、その弁才と博識を生かして北条氏の重臣として活躍した。『信長の野望』をプレイしたことがある人なら、「やたらと『政治』『知略』の数値が高い袈裟姿の家臣」としてご存知の人も多いだろう。
詳しい経歴はぜひ『天下一のへりくつ者』の物語で確認いただきたいが、江雪はその弁舌を生かした外交で北条家の存続の危機を何度も救っている。そして実は、あの関ヶ原の戦いの重要な出来事にも深く関わっている人物ともされる。北条家に仕えている時期も、なぜか八丈島の代官を務めていたりと、経歴を知るだけでも面白い人物なのだ。
度を越す卑下とヨイショで「全面降伏」しつつ領土を獲得
『天下一のへりくつ者』ではそんな奇人・板部岡 江雪の魅力が十二分に描かれている。カバーのイラストでは、眉太く彫り深い、豪放な雰囲気の人物として江雪が描かれているが、物語の江雪はまさにこのイラストのイメージ通りの人物だ。
物語の冒頭では、ときの関白太政大臣・豊臣秀吉のもとに北条家の使者として上洛。なお当時の北条家は豊臣秀吉との間で対立を深めており、秀吉陣営に連なる真田家の上州沼田城にも何度も攻め込んでいた。
秀吉は北条家が和を請うて従うなら、天下人として沼田領の問題を裁定してやろう……という気で使者の江雪を受け入れたのだが、江雪は秀吉の前で以下のようなことを述べる。
「すべてこれ、北条家の気の迷い。そして、戦極時武人として生きる者の我欲。しかし、今や殿下のもと、天下は収まりつつある。北条は殿下に平伏する以上、そんな意地は捨て申す。沼田城については、もう一切執着しませぬ。この日の本の国のすべての城、領地は殿下のもの。真田でも誰でも、殿下のお気に召す者に与えてくだされ」
(『天下一のへりくつ者』より)
全面降伏しているのに話しぶりが朗々と滑らかで、度を越すレベルの自己卑下とヨイショが非常に愉快だ。秀吉としては相手を言い負かし、誘導し、こちらの手に嵌めるつもりだったので、こんな出られ方をしたら戸惑うし、不愉快にもなる。
そして見栄っ張りの秀吉は、己の威厳を見せつけるかのように「沼田城は、北条に、やる」と下顎を突き出して言い放つことになる。それを受けて江雪は、「ありがたき、しあわせ!」と突如として面を上げて叫び、「恐悦至極に、存じ奉ります!」と額を畳に押し付けてひれ伏す。
『天下一のへりくつ者』は、合戦の様子はほとんど描かれないが、合戦以上に胸躍る場面が続く小説なのだ。
“へりくつ”でも人は動き、歴史は動く
ここまで紹介したエピソードは『天下一のへりくつ者』の冒頭のほんの15ページほど。300ページ超の本書が主題として描くのは、豊臣陣営の軍事力が結集し、謙信も信玄も落とせなかった難攻不落の小田原城を包囲した「小田原征伐」だ。
後の歴史を知る我々からすれば、その結末は読まずとも分かるものなのだが、それでも本書の物語はスリリングだ。話の骨子は史実に基づいており、多くの文献で触れられた逸話も随所に取り入れられているが、江雪を軸とした知略謀略の限りを尽くした争いが非常に面白いのである。
そして、そこに加わるのは一癖も二癖もある奇人と異能者ばかりだ。
北条家の耳目となって暗躍した風摩小太郎(ふうま こたろう)と風魔一族。派手好みで見栄っ張りも、底しれぬ度量の大きさも垣間見せる秀吉。その秀吉が才知を高く評価し、それゆえ恐れもした黒田官兵衛。死装束を纏って秀吉に謁見した伊達政宗……。歴史好きの期待に応えるように、戦国時代の偉人たちが、そのイメージに違わぬ型破りな振る舞いを見せてくれるのも本書の素晴らしい点だ。
そして北条家が窮地に追い込まれても、江雪の“へりくつ”は引き続き健在だ。
「あの笠懸の麓を固める軍勢、そして、紙を貼って壁とした巨城、すべてが急造、すべてが飾り、中はうつろ。それが、秀吉の作らんとする天下の実態。化けの皮を剥がしてやりましょうぞ」
(『天下一のへりくつ者』より)
なんていう言葉を聞いて、多くのものが奮い立つ。絶望一歩手前の状況下で、心躍り、命漲るときを生きる。そして江雪の弁舌から生まれた熱気とうねりは、豊臣陣営にも伝播。天下を覆すのに一役買えることに、「こんな面白きことがあるか」と奮い立つ者も生まれ、北条家に一縷の望みが見えてくる……。
戦国時代はこうした「人の心の動く人間ドラマ」の舞台としても、やはり面白い。江雪は「わしがやっておるのは、単なる誑かし。へりくつで人の心を開く。戯言で人を動かす。ただそれだけ」と言い放つが、“へりくつ”や戯言で人が動いた結果、歴史が変わる可能性もあることを本作の物語は教えてくれる。