第2次大戦に投入された最良の軽戦車M24チャーフィー(アメリカ)
第2次大戦:軽戦車列伝 第3回 ~結果として誕生した軽量級戦車の明と暗~
“アメリカ陸軍機甲部隊の父”にちなんだ愛称で活躍 陸上自衛隊にも供与

フランス軍によってインドシナ戦争に投入されたM24チャーフィー軽戦車。東西冷戦下ではすでに旧式兵器扱いとなっていた本車だが、ろくな対戦車兵器を有さない当時のベトミン軍には、そこそこに有効であった。
最初はレンドリースでアメリカから供給を受けたイギリス軍、続いて、アメリカ軍自らがM3/M5スチュワート軽戦車を実戦に投入した結果、いくつかの問題点が浮き彫りになった。
ひとつは、その備砲の37mm砲の口径が小さいため、榴弾(りゅうだん)は炸薬(さくやく)量が少なく威力不足であり、徹甲(てっこう)弾もまた弾体が小さく軽量なので装甲貫徹力が弱いこと。
ふたつめは、装甲防御力が脆弱に過ぎること。
そして最後は、よりいっそうスムーズな走行性能と操縦性能が必要なこと。
そこでこれらの欠点を解消すべく、アメリカ陸軍は新しい軽戦車の開発に着手した。その結果としてM7が誕生したものの、盛り込むべき要求が多すぎて車重が逐次増加し、結局、最終的に軽戦車ではなく中戦車として制式化された。だが、すでに量産されていたM4シャーマン中戦車に比べて劣りこそすれ勝ってはいなかったため、10数両が生産されたのみで終わった。
このM7の失敗を糧として生み出されることになったのが、M24である。
M3/M5、M7、そして中戦車のM3やM4に至るまで、それまでのアメリカ製戦車は、転輪2輪で一組となるボギー式サスペンションを備えていた。しかしM24では、ドイツのティーガーやパンターなどと同様に転輪1輪ずつが独立したトーションバー式サスペンションを採用した結果、転輪の直径が大きくなり、その転輪で脆弱な車体側面下部をカバーできるようになったため、防御力の向上にも貢献している。
また、車体各部が垂直に切り立った面で構成されていたM3/M5に比べて、M24の車体各部は避弾経始が考慮された傾斜面で構成されていた。とはいうものの、その装甲厚は軽戦車の限界の域を出るものではなかったが。
一方、備砲にはM3中戦車やM4中戦車と同じ75mm砲弾を使用する新型の軽量75mm砲が搭載された。実は同砲は、B-25双発爆撃機の地上掃射型に搭載する目的で航空用に開発されたものだったため、重量が軽く、軽戦車のM24にはうってつけであった。
興味深いのは、車体前部左側の操縦手席の右隣の通信手兼車体銃手席にも、副操縦装置が備えられている点だ。これは、実戦において車体前部左側に被弾し操縦手が負傷もしくは戦死すると、車両自体はまだ行動能力を失っていないにもかかわらず乗員は脱出を強いられ、その結果、敵に狙撃されてやられてしまうケースが多く発生したことへの反省である。もし操縦手が「戦力外」となっても、通信手兼車体銃手が最低限安全なところまで乗車を後退させるのを可能とするための措置なのだ。
こうして完成したM24軽戦車には、「アメリカ陸軍機甲部隊の父」と称されるアドナ・ロマンザ・チャーフィー・ジュニア少将にちなんでチャーフィーの愛称が付与され、1944年末から主にヨーロッパ戦域に送られて実戦に投入された。
その結果、軽戦車としては優れた走行性能と防御力、そして適切な火力が評価されたものの、一方で、「足」こそM4中戦車より速いものの、火力も防御力も同車程度であったことから、いっそ全ての戦車をM4で統一してしまった方が、兵站面や整備面の合理化につながったのではないかという議論も生じた。
しかし第2次大戦後、機械的信頼性が高く故障知らずでそこそこの威力を備えたM24は、アメリカの同盟各国へと供与され好評を博している。その中には陸上自衛隊も含まれており、わが国の戦車部隊再興の祖として重宝された。ゆえに当時隆盛を誇った怪獣映画にも、陸上自衛隊所属のM24がミニチュアのみならず実車映像としてもしばしば登場する。