再軍備化の申し子として生まれたI号戦車(ドイツ)
第2次大戦:軽戦車列伝 第1回 ~結果として誕生した軽量級戦車の明と暗~
MG13機関銃2挺を全周旋回銃塔に装備

西方戦役においてフランス・カレーの街路を進むI号戦車B型。砲塔から上半身を出した車長や路肩に並んだイギリス軍捕虜たちと比べると、まさに軽戦車というべき小型の戦車であることがよくわかる。
至極かいつまんで言ってしまえば、当初、軽戦車という概念は存在しなかった。代わりにタンケッテ、すなわち豆戦車という車両は存在していたが、比較する対象として、より重量が重い戦車が出現したことにより、それまでの重量が軽い戦車が、「軽戦車」と称されるようになったのが始まりである。
第二次大戦では、ソ連と並び戦車大国と目されたドイツだが、遡ること第一次大戦に敗れた結果、戦勝国が策定した戦後処理のヴェルサイユ条約によって、保有可能な軍備を著しく制限されていた。戦車もそのひとつで、敗戦後の新生ドイツであるワイマール共和国陸軍は保有できなかったが、戦車技術を振興するため外国で戦車の開発や生産を行っていた。
やがてアドルフ・ヒトラーが総統となり、1935年3月16日、ヴェルサイユ条約の軍事制限条項を一方的に破棄するドイツ再軍備宣言を表明。こうしてドイツはそれまでの研究成果に基づき、一気に戦車を戦力化した。
その嚆矢(こうし)となったのが、陸軍が以前から農業用トラクター(Landwirtschaftlicher Schlepper。略号LaS)の秘匿名称で開発を進めていたI号戦車である。ドイツの戦車開発は、戦闘の中心となる主力戦車と、それをバックアップする支援戦車という組み合わせで考えられており、このI号戦車が主力戦車で、同じ秘匿名称を与えられていたII号戦車が支援戦車になることになっていた。
ドイツの歩兵が持つライフルと同じ、7.92mmマウザー弾を使用するMG13機関銃2挺を全周旋回銃塔に装備したI号戦車は、出現当時の1934年の時点では、敵の歩兵が立てこもる陣地を突破するという主力戦車としての任務を十分に果たせるだけの火力を備えていた。
ところが戦間期の戦車技術の発達は急速で、機関銃しか装備しないI号戦車はすぐに陳腐化。だがドイツ陸軍はその点を重々承知しており、次世代のIII号戦車を主力戦車とし、IV号戦車を支援戦車とする計画に着手していた。そしてこのような「重い」戦車が登場したことで、I号戦車は、改めて「軽戦車」と認識されることになったのだった。
しかし1939年9月にドイツがポーランドに侵攻して第二次大戦が勃発した際、戦車不足だったドイツは多数のI号戦車を実戦に投入。当時、ポーランド軍は戦車や対戦車砲が著しく不足しており、機関銃しか装備していないI号戦車でも比較的戦えたが、運悪くポーランド軍の戦車や対戦車砲に遭遇すると、手酷くやられてしまうのが常だった。
機関銃では破壊不能のトーチカ内に収まった対戦車砲に撃たれると、I号戦車の薄い装甲はたやすく貫通されて乗員は死傷。命中個所によっては燃料に火が入り、炎上爆発することも稀ではなかったのだ。
その後、フランスやベルギー、イギリス海外遠征軍と戦った西方戦役までI号戦車は使われ続けたが、やはり兵装が機関銃だけでは如何ともしがたく、第一線部隊から引き揚げられて各種自走砲の車台へと転用された。