秀次の娘・お菊と秀頼の娘・天秀尼 運命に翻弄された2人の女性が辿った後半生とは?
日本史あやしい話
秀吉に実の子・秀頼が生まれたせいで自害へと追い込まれた秀次であったが、実のところ、その秀頼さえ、後に非業の死を遂げたことはよく知られるところだろう。秀次と秀頼、因縁めいた二人であったが、共に娘がいて、父の死後も生き延びていたことをご存知だろうか。娘の名は、お菊と天秀尼。運命に翻弄されながらも、かろうじて生き延びることができた二人。特筆すべきはその後半生で、共に自らの意思をはっきりと貫いた力強い女性に成長していたのである。
■悪逆非道な秀吉の所業
豊臣秀次といえば、秀吉の甥で、子のいなかった秀吉の後継者として期待された人物であった。溺愛した一人息子・鶴松が、数え3歳で死去したのが1591年8月のこと。その時点では、もはや妻・茶々(淀殿)に再び子が生まれることもないだろうと、諦めの境地に至っていたのだろう。3ヶ月後に、姉(とよ、日秀尼)の長男・秀次を養嗣子とした上で、関白の職を譲ったからである。
しかし、嬉しいことにその思惑は外れ、2年後の1593年8月、茶々との間に秀頼が生まれた。もちろん、秀吉が驚喜したことはいうまでもない。その反面、地位を脅かされることになったのが、養嗣子・秀次であった。秀吉にとって、降って湧いたように後継となるべき直系の子が生まれたわけだから、実の我が子ではない秀次を疎ましく思うようになったのも、親心として無理のないことであった。
問題は、秀次を排除しようとするその方策が、実にあくどいものだったことである。秀次を悪逆非道な人物であるかのように吹聴した上で、謀反の罪を着せて自害に追い込んだからだ。そればかりか、秀吉直系の血筋のみを残すためとして、傍系である秀次の妻子をことごとく殺害するという蛮行に及んだのだからおぞましい。その数、何と39人。遺骸は秀次の首共々一つの穴に投げ入れて土をかぶせ、その上に「秀次悪逆」と刻んだ石碑を立てかけたという非情ぶりであった。秀吉の方こそ悪逆非道。こんな御仁を英傑呼ばわりするなど、あってはならないのだ。
ちなみに、秀吉の悪行は、これだけではない。数え上げればきりがないほど存在する。毛利方の上月城落城後、城に残る200人もの女子供を串刺しあるいは磔にして虐殺。「三木の干し殺し」と呼ばれた播磨三木城攻めでは、7500人もの兵士たちを兵糧攻めにして、ことごとく死に至らしめたとか。さらに「鳥取の飢え殺し」と呼ばれた鳥取城攻めは、それをも凌ぐ飢餓地獄をもたらしたというから恐ろしいばかりの所業を繰り返していたのだ。
■秀次の娘・お菊は、夫と共に死ぬことを決意
ただし、ここではその蛮行を一々問題視するつもりはない。悲劇の主人公・秀次に残された、とある娘にまつわるお話を取り上げたいからである。その名はお菊。あまり聞きなれない名前であるが、淡輪徹斎の養女・小督局という秀次の側室となった女性が生んだ娘であった。1595年生まれというから、父である秀次が処刑された時は、まだ生まれたばかりだったのだろう。
この時、母の小督局は秀次に連座して殺されてしまったが、お菊は、秀次の臣下・富田高定(蔵人)が和泉国の人・淡輪六郎の許に送り届けて身を潜ませ、波有手村の地侍・後藤六郎兵衛の養女として育てさせたという。つまり、秀次に連座することなく生き延びた、唯一ともいうべき肉親なのであった。何とも幸運だったというべきか。
ところが、それから20年近く過ぎた1615年のこと。一転して、彼女に悲運が襲いかかってきた。紀伊国の代官・山口喜内の嫡男・兵内に嫁いだことが、彼女の人生を狂わせてしまったのだ。
実はこの夫、大坂夏の陣に際して、父と共に豊臣方に与してしまったのが悲運の始まりであった。戦いに敗れた豊臣方に与したことを咎められて、処刑されてしまったからである。本来なら、妻であるお菊も連座する運命であったが、嫁いだのがわずか数日前であったことを汲みされて無罪放免。本来なら、喜んで生き続けることができたはずであった。
しかし、この女性の思いは違った。嫁いだのが数日前とはいえ、妻は妻。夫だけ処刑されることを潔しとせず、自ら刑場に駆けつけて夫とともに処刑されることを望んだという。昔で言えば、妻の鑑ともいうべき女性であった。結局、本人の望み通り、紀州南穂村の河原で刑場の露と消えてしまったのである。
■堀主水の妻子の命を救った秀頼の娘・天秀尼
では、秀次の死の元凶ともいうべき秀頼の娘・天秀尼にも目を向けておこう。秀次といえば前述したように、秀頼が生まれたことで非業の死を遂げた御仁であったが、秀次を踏み台として生きてきた秀頼もまた、最後は非業の死を遂げている。いうまでもなく大坂夏の陣で、16万もの徳川軍に攻め込まれた大坂城において、母である淀殿と共に自害してしまったからである。享年23。秀吉の思いのままに生かされただけの、儚い人生だったというべきだろうか。その秀頼が、側室との間にもうけたのが天秀尼であった。
ちなみに、秀頼には側室・位茶との間に国松という名の男子がいた。天秀尼と母が同じであったかどうかは定かではないが、天秀尼にとっては兄にあたることは間違いない。この国松、乳母に連れられて一度は城を落ち延びることができたものの、結局捕らえられて六条河原で斬首されてしまったというから哀れであった。
一方、妹である天秀尼の方は、秀頼の妻・千姫の助命嘆願が功を奏して、無事、生き延びることができた。千姫といえば、織田信長の妹・お市の方の三女・お江の娘である。秀頼との結婚とともに大坂城に入ったものの、大坂夏の陣では家康の命によって、落城寸前の大坂城から救出されていたこともよく知られるところだろう。豊臣家に嫁いだとはいえ、父は徳川秀忠、祖父は家康である。千姫の頼みとあれば、幕府も無下にできなかったのだ。
ただし、助命には二つの条件が申し渡されていた。一つは尼になること、もう一つが、千姫の養女になることであった。千姫がそれを受け入れたことで、娘は罪に問われることなく生き延びることができたのである。
その後のお話である。東慶寺の住持として出家生活を送っていた時のこと。1627年に勃発した会津騒動において、一人の女性とその子の命を助けたことがあったのである。会津騒動といえば、横暴な藩主として知られた陸奥会津藩主・加藤明成(加藤嘉明の長男)が、功臣・堀主水に諌められたことを根に持って、挙げ句の果てに処刑してしまったというお家騒動であった。その妻子が逃げ込んだのが、東慶寺であった。彼女を追って会津藩士らが寺になだれ込んできた時、その前に悠然と立ちふさがったのが天秀尼であった。藩士たちの前に立ち塞がって「理不尽の族、無道至極せり」と抗議したばかりか、「明成を滅却さすか、此の寺を退転せしむるか二つに一つぞ」と啖呵を切ったというから、何とも威勢が良い。さらに千姫を通じて幕府に訴え出たことで、とうとう会津藩を改易へと追い込んだのである。さすがは、秀吉直系。「天秀尼、恐るべし」である。
秀吉から疎まれて殺された秀次とその娘・お菊、さらには家康に攻め殺された秀頼とその娘・天秀尼。豊臣家と徳川家の内と外で繰り広げられた抗争の嵐中で、かろうじて生き延びることができた二人の娘たち。一人はその20年後に自ら命を投げ出し、もう一人は身体を張ってとある妻子の命を助けた。女性が自らの意思で生きることが難しかった時代であったにも関わらず、その後半生ははっきりと意思表示をして命を賭けた。その力強さに、敬意を表したいと思うのである。

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