皇極・斉明天皇の生年は意図的に改ざんされた!? 年表を眺めて推理する歴史の楽しさ
歴史にはわからないことが非常に多くあります。なぜなら真実を悪気なく書き忘れたり、意図的に隠したり、歪曲したり、書く人の意図が入り込んだりするからです。今回はベッドに寝転んでいてもできる歴史遊びを紹介します。
■波乱万丈の生涯をおくった女帝の謎
歴史上の人物の真の姿はわからないものです。厩戸皇子は聖徳太子と後に呼ばれて聖人譚が語り継がれ信仰の対象にもなっています。それほどすばらしい人物だったのでしょうが、人間らしい真の姿はさっぱりわかりません。
そんな中で初めて譲位をして初めて重祚(ちょうそ)をした女性である、皇極・斉明天皇について大きな疑問がありますので今回はそんなお話にしましょう。年表を眺めながら推理をしますが、この西暦換算にも様々な説や異論がありますのでそこはお含みください。
漢風諡号が二つあるのは二度即位したからで、寶皇女(たからのひめみこ)と呼ばれていた女性です。
実に大変な人生を生きた女性で、私の興味を大きくそそる実在の人物の一人です。
簡単にその人生の流れを書き連ねてみると以下のようになります。各推定年齢は誕生年と崩御年から割り出しています。
西暦594年誕生かと思われる寶皇女は、高向王(たかむくおう)という用明天皇の孫と推定16歳で結婚します。そして漢皇子(あやのみこ)と呼ばれた男の子を出産します。17歳ぐらいのことではなかったでしょうか。古代では普通の年齢でしょう。
ところが突然蘇我氏の命令で離婚をして、田村皇子(舒明天皇)に再嫁させられます。そして葛城皇子(かつらぎのみこ=中大兄皇子=天智天皇)を出産しますが、この時は33歳ぐらいになるようです。そしてさらに間人皇女(はしひとのひめみこ=孝徳天皇皇后)を出産し、大海人皇子(おおあまのみこ=天武天皇)を出産したとされていますが、舒明天皇皇后となったのが35歳の頃だと思われます。
そして舒明天皇崩御後、即位して皇極天皇となるのが49歳くらいでしょう。
その皇居の板蓋宮(いたぶきのみや)で乙巳の変が起こった西暦645年が52歳。目の前で息子の中大兄皇子が大臣の蘇我入鹿を斬殺するのですから卒倒したという事です。

飛鳥京跡井戸跡
この地下に乙巳の変の現場である板蓋宮が眠っている。
狭い飛鳥盆地はほとんどが複合遺跡である。
撮影:柏木宏之
そのショックなのか誰かの指示なのかはわかりませんが、史上初の譲位をして実の弟である軽皇子(かるのみこ)が孝徳天皇として即位し中大兄皇子を皇太子とします。このあたりには相当な権力争いがバックにあるような臭いがします。
その後、飛鳥から難波宮(なにわのみや)に遷都されますが、数年で中大兄皇子らすべての人々が
難波宮を捨てて飛鳥に戻ります。この時60歳になっていたと思われます。
そして孝徳天皇崩御後、斉明天皇として初の重祚をするのです。この時62歳ぐらいとなります。この重祚にも政治的な異臭がしますが、大和王権は滅亡したはずの百済を再興支援のため大軍団を出撃させ、斉明天皇はすべての皇族を引き連れて最前線の九州朝倉橘広庭の宮に長距離を行幸します。そして間もなく朝倉宮で崩御したのが67歳だといいます。
これは年表と年齢を比較同定して得た大まかな流れです。一人の女性としてもの凄い人生だと思いませんか? 人生の初めを蘇我氏に翻弄され、後の人生は藤原鎌足に翻弄され続けた女性だと感じてなりません。

645年乙巳の変の鎌足・中大兄皇子軍が本営とした飛鳥寺
飛鳥大仏は静かにすべてを見ていた証言者でもある。
撮影:柏木宏之
しかしここで寶皇女の人生年表をよく見ると、年齢に疑問を感じます。上記の年齢は、干支一回り多いのではないかと思うのです。つまり「錯簡(さっかん)」があるのではないかと感じたのです。そもそも紙が貴重な時代、相変わらず巻子(かんす)が使われています。巻子というのは木簡を紐で結んで巻物にしたもので、資料として使う時に必要な部分の木簡だけはずして参考し、また元に戻すという事ができるのですが、戻すときに干支を一回り間違えて綴じてしまう事を言います。古代は十干十二支で年代を記録しますので、ときどきそういうミスがあったようですがこの錯簡には意図的なものを感じることがあります。
つまり錯簡があれば最初の子である「漢皇子(あやのみこ)」の出生年が12年古く記録されることになるのです。「漢皇子」ですから蘇我氏を支える上級豪族である「漢氏(あやうじ)」に養育された皇子ですが、その後、この皇子は行方不明となります。記録から消えています。
私は寶皇女の誕生年が、西暦606年だったのではないかと強く疑っているのです。中大兄皇子の出産年齢が現代のように医学の発達した時代では当たり前ですが、当時としては高齢に過ぎるように感じるのです。また漢皇子の出産から年数がたちすぎているように感じます。
私はこの皇子こそ「大海人皇子」ではなかったかと考えています。中大兄皇子に初めて面会した大海人皇子は4歳年上だったのだろうと思います。
しかし父親が高向王という即位できない皇子で、一方の中大兄皇子は異父同母弟とはいえ、舒明天皇の皇子です。そのうえ正体が漢皇子であったなら、乙巳の変で殲滅された蘇我氏の皇子でもあります。乙巳の変で蘇我氏から政権を奪取した藤原鎌足の目が光っている時ですから、野心の無いことを強調するためにも、間人皇女のさらに下の弟だと自ら宣言したのではなかったかと思っています。
と、ここまで申しましたが、「そんなに歴史を自由に語ってもいいのか!」というお叱りを承知しています。
紙数の限られた中で十分な論証や主張はできませんし、論文を書いているわけでもありません。歴史推理を自由に楽しむという自由を皆さんにも味わっていただきたいのです。年表自体も信頼性に疑いを持てば全て台無しですが、情報の乏しい古代の動きを年表から読み解くのは、お金もかからず逞しい想像力で推理する楽しさがありますよ。