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「秦の始皇帝」の末裔を称した戦国四国の覇者【長宗我部家】はどのような歴史をもつのか⁉【戦国武将のルーツをたどる】

戦国武将のルーツを辿る【第14回】


日本での「武士の起こり」は、遠く平安時代の「源氏」と「平家」に始まるという。「源平」がこれに当たるが、戦国時代の武将たちもこぞって自らの出自を「源平」に求めた形跡はある。だが、そのほとんどが明確なルーツはないままに「源平」を名乗ろうとした。由緒のあるか確たる氏素性を持った戦国大名は数えるほどしかいない。そうした戦国武将・大名家も、自分の家のルーツを主張した。絵空事も多いが、そうした主張に耳を貸してみたい。今回は「土佐の出来人」と呼ばれ、戦国時代の四国をほぼ平定した長宗我部元親の家の歴史をせまる。


 

長宗我部元親像

 

 保元元年(1156)、京都で起きた朝廷内部の争いに、源平双方の武家が絡んだ「保元の乱」で、崇徳上皇方として戦い、敗れた秦能俊(はたよしとし)が海を渡って四国に逃れ、土佐の長岡郡に定着した。当初「宗我部」を名乗ったが、すぐ隣接に同じ姓「宗我部」を名乗る一族がいたためにこれと区別するために長岡郡の「長」を頭に付けて「長宗我部」(ちょうそかべ)とした。同様に一族の「香宗我部」(こうそかべ)は、香美郡から名付けたという。

 

 元来「秦氏」だった長宗我部氏は、秦姓のルーツともいえる「秦・始皇帝」を意識し、自らその子孫を名乗るようにもなっていた。日本の戦国武将の家として、4文字もの長さを持つ名字は「長宗我部」しかないが、スケールも中国大陸を統一した始皇帝の末裔を自称するなどスケールの大きさでも比類のない家であり、子孫たちであった。

 

 そのうち、戦国時代に登場する長宗我部元親(もとちか)は、もっともスケールは大きい。後年の話だが、豊臣秀吉の軍門に降り、京都・聚楽第(じゅらくだい)に招かれた元親が秀吉から「あなたは四国全体を望むのか、それとも天下を望むのか」と問われたときに、「どうして天下を望みましょう。天下に決まっています」と答えた。すると秀吉はすかさず「元親の器量では、天下という望みは叶うまい」と笑った。する元親は「悪い時代に生まれ来て、天下の主人になり損じました」と断じた。秀吉がその意味を尋ねると、元親は「秀吉様の天下ではなく、他の武将の天下であったなら、おそらく私にも天下は取れたと思いますが、あなた様の世に生まれたのでその望みを失いました。それが悪い世に生まれ来た、という言葉になりました」と答えた。秀吉への追従の意味もあった。秀吉は喜んで、千利休に茶を入れさせたという。

 

 だが、この時の元親の言葉は、戯れ言のように聞こえても、実は本心でもあった。内心では「秦の始皇帝の末裔である俺は、あなたのような百姓上がりのエセ武将とは違いますよ」と、舌を出していたのではなかったか。

 

 天文4年(1539)岡豊城(おこうじょう/南国市)に生まれ、弥三郎という幼名であった元親は、女のようにか弱く見えたことから「姫和子」(ひめわこ)と呼ばれた。色白で痩せ型、外見も内面も女性のようであった。父・国親も元親を「うつけ者」といって持て余したともされる。

 

 それだけに、普通なら初陣は15,6歳なのだが「姫和子。元親」の初陣は遅く、永禄3年(1560)5月、22歳であった。相手は元親の祖父・兼序(かねつぐ)の仇・山本氏であった。初陣の元親は家臣の秦泉寺豊後に「槍はどう使えばいいのか」と聞いた。豊後は「敵の目を突けばよい」と教えた。元親はその一言だけで頷くと、50騎を率いて果敢に敵の真っ只中に討ち入った。そして打ちかかってきた敵兵を2騎、自らの槍で突き上げた。これが味方の士気を高め、不利な状況を打破して、長宗我部軍が勝利した。

 

 こうして戦国武将として名を馳せた元親はその後、四国全土の制服・統一を目指して戦い続けた。そんな矢先、天下人の座に近かった織田信長と同盟したりしたが、結果として信長とは手切れになり、その直後に「本能寺の変」が起きる。元親は、その後の混乱を窺うように四国の征服を成し遂げた。その戦力の中心になったのが「一領具足」と呼ぶ軍団であった。しかし信長亡き後の天下を目前にした秀吉には敵わず、元親は降伏。土佐1国のみの領有を認められただけであった。

 

 そして、秀吉時代が終焉し徳川家康の時代が来る。関ヶ原合戦の前年・慶長4年(1599)5月、元親は伏見で病死した。61歳。その後継となった4男・盛親は関ヶ原合戦で敗れ、大坂の陣で討ち死にして、長宗我部家は滅亡した。

 

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過去記事

江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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