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“生きて還れる”特攻・「空」対「空」体当たり部隊があった⁉ 「未来から来た白銀の怪鳥」B-29を体当たりで撃墜せよ!

太平洋戦争後80年の記憶

飛行第244戦隊本部小隊の三式戦「飛燕」。同戦隊に所属する「震天制空隊」は勇戦した。

 私たち日本人の多くは、パイロット自らが「生きた誘導装置」となり、爆弾を積んだ航空機を操縦してそのまま敵艦船に突入する空対艦体当たり攻撃をおこなった悲惨な「神風特攻隊」を知っている。ところがこの名称があまりに有名になってしまったため、海軍の空対艦体当たり攻撃をおこなう部隊の総称が「神風特別攻撃隊」であり、陸軍の空対艦体当たり攻撃をおこなう部隊が「と号部隊」の総称で呼ばれていたことは、あまり知られていないようだ。ちなみに「と号部隊」の「と」は、「特攻隊」の略といわれる。

 

 最後まで乗機を操縦して敵艦船に体当たりしてしまえば、パイロットは絶対に生還できない。まさに「十死零生(じっしれいせい)」の空対艦体当たり攻撃をそもそも発想したのは、敵艦船を撃沈しなければならない海軍であった。そしてこの海軍の影響により、陸軍も空対艦体当たり攻撃を導入したが、当然ながら海軍は、島国の日本に向けて洋上を進攻してくる敵艦船に対するこの「戦法」に、陸軍よりも積極的だった。

 

 一方、陸軍には「日本の空を守る」という重要な使命が課せられていた。この点は海軍も同様に責を負っていたが、主力は陸軍である。アメリカが最新鋭の新型爆撃機(B-29のこと)を開発中であることは、同機の実戦参加前から日本側は察知していたが、1944年中旬、実物のB-29が出現して交戦した結果、当時の日本陸・海軍が保有する戦闘機で、B-29とまともに戦える機体は皆無であることが判明する。

 

 日本では終戦まで試作の域を出ず、とうとう実用化できなかったターボチャージャーを装備した大馬力エンジンで1万m以上の高高度を高速で飛行でき、極寒の高高度で酸素マスクなしの半袖シャツ1枚で乗務可能な機内環境を整えてくれる与圧室を備え、初期の弾道計算機内蔵の射撃照準器で制御される防御用機関銃多数に高性能の爆撃照準器と爆撃照準兼航法レーダーなどが搭載されたB-29は、日本側にとってはまさに「未来からやって来た爆撃機」であり、同機の愛称スーパーフォートレス(超空の要塞)のごとく撃墜には困難がともなった。

 

 のちの低高度焼夷弾(しょういだん)無差別爆撃時とは異なり、初期のB-29部隊は高性能爆弾による昼間精密爆撃にこだわっていたので日本本土上空に高高度侵入してきたため、ターボチャージャーなしの日本機では、まるで酸欠になった金魚が水面であっぷあっぷするごとく、B-29の飛行高度まで上昇のうえ機位を維持するのが精一杯で、ちょっと操縦の気を抜くと容易に数百mぐらい高度を滑り落ちてしまう状況だった。

 

 そこで陸軍では、究極の策としてB-29への空対空体当たり攻撃を採用する。実は航空機が敵の航空機に体当たり攻撃するケースは、第一次大戦当時から偶発にしろ意図的にしろ存在しており、それを「戦法」化したわけだ。

 

 この空対空体当たり攻撃は、絶対に生還不可能な「必死」の空対艦体当たり攻撃とは異なり、爆発に巻き込まれるおそれがある爆弾を搭載していない航空機で体当たりすることに加えて、衝突した部位や衝突の仕方によっては、操縦していたパイロットは不時着するなり脱出してパラシュートで生還することが可能だった。もちろん、パイロットにとってはきわめて危険な戦法ではあったが、「必死」ではなく「生還」の可能性がある「決死」なのは大いなる救いといえた。

 

 しかも生還者は、再度出撃できることに加えて、その経験や飛行技術、体当たりのテクニックなどを後進に伝授できるため、「生還は恥」といった風潮は全くなく、逆に生還を奨励されたという。

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白石 光しらいし ひかる

1969年、東京都生まれ。戦車、航空機、艦船などの兵器をはじめ、戦術、作戦に関する造詣も深い。主な著書に『図解マスター・戦車』(学研パブリック)、『真珠湾奇襲1941.12.8』(大日本絵画)など。

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