男踊りで人気を博した「歌舞伎の祖・出雲阿国」の生涯とは? 江戸を熱狂させた女の不遇の晩年
日本史あやしい話
出雲阿国といえば、歌舞伎の祖。女だてらにいなせな伊達男に扮して踊る姿が人気を博して、京や江戸で大活躍。それにもかかわらず、晩年の消息は不明である。いったい、どんな人生を歩んできたのだろうか、あらためて振り返ってみたいと思うのだ。
■出雲阿国の墓にまつわる謎
歌舞伎の祖といわれる出雲阿国、そのお墓に詣でた方はどのくらいおられるだろうか? 島根県の出雲大社の西約500メートル、国譲りや国引き神話で知られる稲佐の浜へ向かう道すがらにそれがある。入り口に「歌舞伎の創始者 出雲阿国の墓」と大きな案内板が掲げられているから、すぐにわかるはずだ。
階段を登るや、「出雲阿国墓」と刻まれた石碑を目にすることができるが、それが墓石なのかどうか。むしろ、石棚で囲まれたその中央にで〜んと据えられている赤黒い自然石こそが墓石だと言わんばかりの形状に、少々違和感を覚えてしまうのは筆者ばかりではあるまい。「これが本当に阿国の墓?」と、思わずつぶやいてしまいそうになるのだ。

出雲阿国の墓/撮影:藤井勝彦
ちなみに阿国の墓は、もう1箇所ある。京都市の大徳寺三玄院内にあるのがそれで、こちらは彼女が愛したとされる名古屋山三郎(山三、織田九右衛門)の墓と仲良く並んでいるのが特徴的だ。となれば、「どちらが本当の墓?」と詮索したくなりそうだが、ここではそれは問わない。ともに阿国が葬られていると信じたいからである。
出雲にある阿国の墓に話を戻そう。「赤黒い自然石が、なぜそこに置かれているのか?」である。正直なところ、筆者には「解らない」。それでも、ヒントは、作家・有吉佐和子氏が著した『出雲の阿国』に見出せそうだ。この不思議な石に啓発されたものか、阿国が鉄穴師の落とした御影石に足を押しつぶされ、その果てに死んだことにしているからである。父は鉄穴師、母は村下の娘との設定で、晩年の阿国が故郷に戻って、父母ゆかりの地で亡くなったその時の情景をこの自然石に物語らせたと思えてならないのだ。
阿国は故郷へ帰ったものの、生家の中村家ではなく、その近くに草庵を構えて尼僧として暮らしたというから、生家との関係も気になるところである。歌舞伎の祖として華々しい活躍ぶりを見せたスーパースターの晩年。京や江戸での活躍ぶりが賑々しいものだっただけに、その様子が、どうしても寂しく見えてしまうのだ。
何はともあれ、ここからは出雲阿国なる女性がどのような経緯を経て歌舞伎の祖と呼ばれるようになったのか? そのあたりから語り始めることにしたい。
■京、江戸で成功するも、ひっそりと帰郷したのはなぜ?
生没年は、不明である。それでも筆者は、生年は1571年あるいは1572年と睨んでいるが、果たして? 父は、出雲国杵築の中村の里の鍛冶・中村三右衛門で、出雲大社の神前巫女となり、大社勧進のために諸国を巡回し始めたことは確かなようである。その頃の記録(『多聞院日記』)として、1582年に「加賀国八歳十一歳の童」が春日大社でヤヤコ踊りを行ったと記されているのが気になる。これを8歳の加賀(妹か)と11歳の国(阿国)と見なせば、彼女が1571〜1572年生まれというのが妥当という訳である。
1600年には、雲州(出雲)の国と菊らが、京都近衛殿の屋敷において、ヤヤコ跳(ヤヤコ踊り)を踊ったと記録(『時慶卿記』)されている他、1603年には、京で歌舞伎踊りを演じて人気を博したとも。当時は四条河原や北野天満宮の境内に専用の舞台を構えて、連日大入り。天下一の幟を掲げていたことでもわかるように、自身も押しも押されもせぬ踊りの名手として勢い込んでいたに違いない。
ただし、人気の秘密は、踊り上手ということもさることながら、「異風なる男の真似をして」というところにあったようだ。伊達男風の華やかな衣装に、水晶や珊瑚のネックレスを首から下げ、長い刀を差して舞うという傾き者(かぶきもの)を演じて注目を集めた。その男装の阿国と女装の阿国の夫・三九郎が、少々エロチックに戯れるという奇抜さも大受けした一因で、舞台が終焉を迎える頃になると、観客も入り混じって熱狂的に踊り明かすということも少なくなかったようである。
また、愛人と目されることもある名古屋山三郎が、森忠政の重臣・井戸宇右衛門と対立の末、斬り伏せられて死亡するや、山三郎の亡霊を自ら演じることでも評判となったとも。
さらに1607年には、江戸城で勧進歌舞伎を上演。江戸中に出雲阿国ブームを巻き起こしたという。ただし、彼女にまつわる記録はここまでで、その後の消息は不明。前述のように、故郷の出雲に帰って静かに余生を送ったと見なす向きが多いようだ。その間、阿国歌舞伎が人気を博していたとはいえ、次第に華やかな遊女歌舞伎に押されて人気が低迷したこともあった。人気の陰りを挽回しようと男装したのも、苦肉の策というべきだろうか。苦労人であった彼女の生き様が推し量れそうなお話である。
一説によれば、彼女の没年は、1613年だったとか。彼女が1572年生まれだというのが本当だとすれば、江戸で大成功を収めたのは35歳頃、亡くなったのは41歳前後ということになる。その間の消息が不明ゆえ確かなことは言えそうもないが、記録が途絶えたところから鑑みれば、失意の里帰りだったという気がしてならないのだ。
前述の有吉佐和子氏著『出雲の阿国』では、鑪(たたら)の大旦那・田部荘兵衛に呼ばれて最後の踊りを披露するように華を持たせているが、果たして史実としてはどうだったのか?もしかしたら、死の間際まで彼女を踊らせたというのは、作家有吉佐和子氏自身が死ぬまで小説を書き続けたいとの願いの投影だったのかもしれない。
阿国の死後の話にも触れておこう。実のところ、彼女が編み出した阿国歌舞伎は、その後一時的に衰退している。1629年に、風紀を取り締まるとのことで、幕府によって、女性が舞台に上がることが禁じられてしまったからである。それが再び人気を博するようになるのは、元禄年間(1688〜1704年)のことであった。ただし、遊女歌舞伎はもとより、ついには女性が演じることは叶わず、現在見られるような男だけの歌舞伎として発展するようになるのだ。それが本当に良かったのかどうかは解らないが、阿国歌舞伎がどのようなものであったのかは、ひと目確かめておきたいもの。その復活を願うのは、筆者ばかりではないだろう。

出雲阿国像/撮影:藤井勝彦