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卑弥呼の「銅鏡百枚」のゆくえと「伝世鏡論」 「空白の4世紀」の謎は富雄丸山古墳出土の銅鏡群で解明されるか!?


鏡というものは実に不可思議な古代人の発明品だと思う時があります。自分の顔をまじまじと見ると「これが自分?」と感じることもありますし、今は亡き母親の使っていた鏡台を眺めて「ここに母親の顔が映っていたんだなあ」と思うこともあります。


 

■古代史を紐解く「鏡」

 

 古代史や古墳を研究していると「鏡」には頻繁に出会います。ただ考古学の場合、鏡の背面の文様が研究対象ですからなかなか鏡面を見ることが無いのですが、鏡の本来の役割はもちろん鏡面なのであって背面ではありません。

 

 ミュージアムなどを訪れると、ときどき模擬銅鏡作りのワークショップに出会います。鉛と錫の合金を型に流し込んで、鏡面を一生懸命磨くのですが、なかなか根気の要る作業です。そして光をきれいに反射するようになると、自分の顔が映ります。銅鏡も同じように、鏡面を一生懸命磨いて鏡の完成になるわけです。

 

 発明したのは中国大陸で、やがてその鏡が日本列島にも舶載されます。そして貴重な銅鏡から型を取って、仿製鏡が作られます。同じ型から何枚も同范鏡が作られることもありました。吉祥文字の入った銅鏡を日本列島で模造する場合、文字の理解ができず、その部分を記号に置き換えて鋳造することもあったようです。山口県柳井市の柳井茶臼山古墳から出土した大きな単頭双胴怪獣鏡などはそういった例でしょう。

山口県柳井茶臼山古墳出土の単頭双胴海獣鏡。本来漢字が記載されるところが記号になっている仿製鏡だ。
撮影:柏木宏之

 また鏡などの運搬や伝世の可能な物は古代の墓から副葬品として出土しても、必ずしも被葬者の世代を特定することができないのではないかと考えられた時代がありました。これを「伝世鏡論」といいます。しかし近年の研究では、「被葬者が受け取った鏡が副葬されるとみて間違いない」と考えられるようになっていて、伝世鏡論は後退しています。

 

 ですから大阪府高槻市の安満宮山古墳という長方形墳から出土した5枚の銅鏡の中に「青龍三年」と年号の入った鏡が出ていることは、邪馬台国論争に一石を投じる発見とされています。青龍三年は『三国志』の魏の年号で、西暦235年のことです。

大阪府高槻市安満宮山古墳展示レプリカ鏡。青龍三年と記された方格規矩鏡だ。
撮影:柏木宏之

 そして『魏志倭人伝』の卑弥呼が魏の皇帝に使者を送ったのが製作から3年後の、論争はありますが「景初三年(238年or 239年)」ですからこの青龍三年の文字がある方格規矩四神鏡は、卑弥呼に送られた銅鏡百枚のうちのものではないかというのです。確かにかなり可能性のある話ではあります。

 

 今のところ外観弥生墓の安満宮山古墳の被葬者埋葬が3世紀半ば過ぎで、箸墓古墳の少し後か同時期と考えられていますので、大海を往復する航海技術者として遣魏使の時に、安満地域の豪族が大きな寄与をしたのではないかと想像したくなるわけです。当時の淀川河口域は今よりもずっと海が入り込んでいて、瀬戸内海に漕ぎ出だす国際港だったと考えられているのです。その制海権を持っていたのが安満宮山古墳の王だったというわけです。実際、そのずっと後の6世紀に淀川河畔に宮を置いて、九州の筑紫磐井を撃滅した継体天皇もこの辺りを出撃基地としています。

 

 ですから弥生末期に遠く魏の皇帝から下賜された貴重な銅鏡百枚のうちから、褒美として拝領したのがこの鏡ではないのか?と考えられるわけです。

 

 私見では方墳は出雲族の墓だと愚考しますので、大和王権が発祥するころに弥生時代から続く安満遺跡の出雲族王が、内海を制圧する軍事力(=海運力)を持っていても不思議ではないと思います。

 

 ただ、だから邪馬台国が畿内にあったとはいえませんし、まだ文字を読む力がそれほどあったとは思えませんので、まったくほかの事情でたまたま紀年鏡が安満集落王に配布された、とも考えなくてはならないと思います。考古の世界はそれぐらいに思い込みや予断を警戒するべきだと私は考えます。

 

 さて「副葬された鏡は被葬者が受領したものだ」と先述しましたが、この常識をひっくり返す発見が奈良県の富雄丸山古墳造り出し埋葬墓でありました。

 コウヤマキの割竹型木棺の上から、例の世界最長の蛇行剣・見たことも無い盾形の鼉龍鏡(だりゅうきょう)が発見されました。これらは埋葬時期の4世紀末の倭製品だろうと推定されています。

 

 そして木棺の中から発見されていた三枚の丸い銅鏡のクリーニングが終わって、とんでもない発見がありました。埋葬されていた銅鏡は上から順番に1号鏡は3世紀の魏鏡「三角縁神獣鏡」、真ん中の2号鏡は紀元前1世紀から紀元初期に前漢で造られた「虺龍文鏡(きりゅうもんきょう)」、そして一番下の3号鏡は2世紀頃の後漢鏡である「画像鏡」でした。またそのすべてが径20cmほどの大型鏡です。

橿原考古学研究所付属博物館特別展示の富雄丸山古墳出土虺龍文鏡(きりゅうもんきょう)解説展示パネル。
撮影:柏木宏之

 富雄丸山古墳の造営が4世紀後半ですから蛇行剣と盾型銅鏡は時期が合いますが、木棺内から出土した三枚の銅鏡は約300年間の時代差がありました。造営時期からするとなんと400年間の差があるのです。つまり今は後退した「伝世鏡論」が明確に示されたのです! なぜこんなに広い時代の銅鏡が同時に副葬されたのか? 造り出し部に埋葬されていた人物との関係は? 400年に及ぶ長期間と被葬者を結ぶストーリーは? なぜ出土した鏡がすべて鏡面を上に副葬されていたのか?

 

 これからさまざまな説が出てくるでしょうし、私自身もまだ妄想すら思い浮かびません。
奈良盆地から河内平野に大古墳が進出する4世紀の謎を、この鏡群が説いてくれるかもしれませんね。

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柏木 宏之(かしわぎ ひろゆき)
柏木 宏之かしわぎ ひろゆき

1958年生まれ。関西外国語大学スペイン語学科卒業。1983年から2023年まで放送アナウンサー、ニュース、演芸、バラエティ、情報、ワイドショー、ラジオパーソナリティ、歴史番組を数多く担当。現在はフリーアナウンサーと同時に武庫川学院文学部非常勤講師を務め、社会人歴史研究会「まほろば総研」を主宰。2010年、奈良大学通信教育部文化財歴史学科卒業学芸員資格取得。専門分野は古代史。歴史物語を執筆中。

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