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功罪相半ばする野球人「キャピー原田」 悪質なプロモーターとの評価が流布する背景とは?

あなたの知らない野球の歴史


■読売との蜜月関係の終了

 

 195616日、正力松太郎の読売復帰に合わせて日米野球興行の全権を任された鈴木惣太郎はキャピー原田に面会した。正力が復帰したとはいえ、原田は次の日米野球興行でも引き続き関与したいと考えていた。しかし、読売社内の空気は、かつて反正力派が掌握して状況とは異なっていた。

 

 鈴木の「日記」は臨場感にあふれた書きっぷりである。鈴木は「オドール・原田の線は読売で不満足である旨」を率直に述べ、さらに前回のニューヨーク・ジャイアンツ招聘の際に「勝手に都合のよいことばかりやってきた」と追及した。温厚な鈴木にしては非常に強硬な発言だ。自ら路線を引いた日米野球が変質していることに危機感を覚えたのだろう。

 

 原田は「読売の重役は私の立場を了解してくれている」と述べつつも「しきりに私(鈴木)に謝り」、同時に読売事業普及部の数人が鈴木に反発していたから「今度は私が抑える」と言い始める。しかし、鈴木は「そんな必要ない」と一蹴している。今や鈴木に反対する反正力派は社内からいなくなり原田の弁明は通じなかった。

 

 鈴木の追及は続き「友情とビジネスは、はっきり区別する必要あり。今度は友人としてオドールの助力を借りることもあるが、ビジネスとしては全く別で、場合によってはオドールに日米野球では手を出してもらわぬかもしれぬ」と彼にはしては語気を強めた発言をしている。鈴木は読売から全権を委任され強気の姿勢だった。

 

 一方、読売運動部からもオドール・原田に対する不満があふれていた。彼らは「オドールを迎えることは金がいる。・・・細君も来るから」と説明し、むしろ鈴木が渡米して今回の交渉をリードしてオドールを説き伏せてほしいと話した。さらに「オドール・チームは魅力がなし」「オドールが球場に出てファンにおどけて見せるのはもう効き目がない、反感を買う」、「日本に来たことがない選手が欲しい」という声もあった。また来日したヤンキースの選手のように「それに負けぬ顔ぶれが必要」、さらにディマジオのほうが客を呼べるとか、佐々木運動部長からは「シールズが来たときは130万、飲食は60万、自動車代は100万」という金額も明かされ部員を驚かせた。

 

 運動部では、来日メンバーの新鮮さ、野球への真摯な姿勢、莫大な経費といった面から不満が蓄積していたようだ。それだけに新鮮なチームの来日を望んでいた。

 

 その後、鈴木は球団代表に面会して、日米野球について意見を聞いたが、これも厳しい意見がばかりだった。問題点としてオドールを使わないでMLB側と交渉することは「時間と努力が大変」ということ、「原田の場合、会計のことなど曖昧で礼金1万ドルのほかに自分も1万ドルもらう約束があったと安田さんとの間にあった」ことがあげられる。オドールを招くことに不賛成もあるが、オドールの場合は「少しも厄介がなかった」という話もあった。

 

 一方、セ・リーグ会長を務めていた鈴木龍二は、「もうオドールの時代ではない、・・・骨が折れても別に新しい線をつくるべき」と惣太郎に語っていた。大阪読売社長の務台光雄にも面会した惣太郎だが、オドール・原田らで飛行機代の二重取りがあったこと、ハワイ・フィリピンの飛行機代で原田から900万の請求があったことを知らされ、読売幹部との話では飛行機代など旅費で莫大な支払いがあったことが次から次へと暴露されていた。安田の後ろ盾があったため今まで明らかにならなかったが、彼が亡くなったことで日米野球の裏側での問題点が噴出していた。

 

 まもなく原田は東急航空を退職した。理由は定かではないが、安田庄司が亡くなってから読売との関係は希薄になっていたことが大きな要因だろう。原田は回想録でも「ドジャースの仕事を最後に、原田は読売新聞と巨人との縁を切った」と振り返っている。

 

 ドジャースとの交渉では原田はドジャースのオマリー会長と直接交渉したわけではない。オマリーは、原田について「薬物関係者との交友もあり、原田と付き合わない」と率直に述べている。事実、原田はオマリーに接近したが断られている。

 

 同年末、原田は闇ドル問題で家宅捜索を受けた。神奈川新聞や英字新聞には掲載されたが、他の新聞は触れなかった。かつてのESS原田中尉にメディアは忖度したかもしれない。鈴木惣太郎は鈴木龍二と「日本人を馬鹿しすぎ」とも話している。プロモーターとしての彼の評判は、こういった部分でも評価を落としている。

 

 読売との関係が切れた原田は、戦前から付き合いがあるパ・リーグの南海ホークス・鶴岡一人監督に接近。日本人最初のメジャー・リーガー村上雅則投手(南海)の野球留学にも関わり、村上がジャイアンツでメジャー昇格したことで、それに驚いた南海とMLBの間でトラブルが生じた。この結果、日米野球交流は中断、フリック・コミッショナーを激怒させる事態となった。その後、鈴木惣太郎が渡米して日米関係修復に尽力している。

 

 一方、原田はオドールと来日したおり、「日米ワールドシリーズ」という日米間の頂上決戦を発表したが、日米のコミッショナーに即座に否定されている。その後原田は、プロレス人気に関心を持ち、力道山のリキ・エンタープライズの副社長になっている。力道山が暴漢に刺された時、原田は現場に居合わせ、ホテル・ニュージャパンに運んだのは原田である。

 

 このように退役後の原田は興行師として知られるようになるが、一部の関係者の話によると悪質なプロモーターとも言われるようになり、とはいうものの占領時代の日本野球復興に尽力したことも間違いではなく、2リーグ制移行後、功罪相半ばする興行師という是々非々で評価される野球人となっている。

 

アメリカ国旗がたなびく第一生命館。1952年に返還されるまでGHQの本部が置かれた 国立国会図書館蔵

 

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波多野 勝はたのまさる

1953年、岐阜県生まれ。歴史学者。1982年慶応義塾大学大学院法学研究科博士課程修了。法学博士。元常磐大学教授。著書に『浜口雄幸』(中公新書)、『昭和天皇 欧米外遊の実像 象徴天皇の外交を再検証する』(芙蓉書房出版)、『明仁皇太子―エリザベス女王戴冠式列席記』(草思社)、『昭和天皇とラストエンペラー―溥儀と満州国の真実』(草思社)、『日米野球の架け橋 鈴木惣太郎の人生と正力松太郎』(芙蓉書房出版)、『日米野球史―メジャーを追いかけた70年』(PHP)など多数。

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