血にまみれ、左腕を失っても地獄を生き抜く… 水木しげるが戦場で体験した「奇跡」とは?
■「ゲゲゲの鬼太郎」の「ぬりかべ」が生まれた不思議な体験
「南方戦線」に従軍していた時の水木しげるは、奇跡的な体験を何度もしています。
「人間は危い時に“予知”をする能力があるのだろう。今までに経験したことのない“不気味さ”に兵隊は誰も話をしないし、なぜか話をしてもヒソヒソ声になるのだった(水木しげる『ラバウル戦記』)」。
それまではノンキすぎるといってもよいほどの筆致の水木の手記のトーンがガラッと変わるのが、昭和19年(1944年)5月下旬、ニューイングランド島・ズンゲンから、バイエンという「陸の孤島」に、わずか10数名の小隊のメンバーに選ばれて移動した後の話です。
運命の晩、宿舎の周囲があまりに静かすぎることや、異様な犬の遠吠えに不安を隠せない水木に対し、彼の右横に寝ていた戦友・山本は「そんなにビクビクするなよ」と、なぜか不機嫌そうな様子を見せただけでした。こういうとき、人は生き残れるのか、死ぬのか、運命に選ばれるのかもしれません。
そしておそらくこれが水木と山本の最後の会話となりました。宿舎の裏手の山から敵軍が現地人を徴用した「ソルジャーボーイ」の奇襲攻撃があり、就寝中だった水木が属する第四分隊は、とっさに逃げ出せた水木を残して全員玉砕してしまったのです。
敵の追撃を交わしながら水木は5日の間、海、河、山を逃げつづけています。海岸での逃亡では尖ったサンゴに足裏がやられて血だらけになり、山ではマラリア蚊の大群に襲われ、「顔をさわるだけで、百匹くらいはとれる感じ。とれるというより、顔をなでると、血を吸った蚊でヌルーッとする」という想像するだけでも恐ろしい経験もしています。
とりわけ興味深いのは、そんな「地獄」の中で、この世の者とは思えぬ存在に守ってもらえた体験談です。何も見えない暗闇に支配された夜のジャングルをさまよう水木の前に、色は漆黒ですが手で押しても、コールタールを固めたような感触の「何か」が邪魔をして、前にも横にも、まったく進めなくなる経験をしたそうです。水木が移動をあきらめた様子になると、「壁」は消えていきました。そして朝日が登ると、彼の眼の前にあったのは断崖絶壁で、昨晩の「壁」に命を救われたことがわかったのでした。
後年の水木は、ラバウルでの体験をもとに自身の漫画のキャラクター「ぬりかべ」を創造したそうです。「ぬりかべ」はもともと九州地方のローカル妖怪で、行く手をはばんで嫌がらせをしてくる程度の存在なのですが、『ゲゲゲ』シリーズでは鬼太郎たちを身体を張って守ってくれる存在として描かれていますね。水木がそのようにキャラデザインして描いたのも、深夜のラバウルでの神秘体験ゆえだと知ると、感慨深いものがあります。
逃亡開始から5日後、水木は「海軍の小屋」に命からがらたどり着き、保護されています。そこでしばらく過ごしたあと、陸軍部隊に拾われたのですが、その中隊長は水木に激怒します。「なんで逃げ帰ったんだ。皆が死んだんだから、お前も死ね」と暴言を吐かれた水木は「中隊長も軍隊も理解できなくなり、同時に激しい怒りがこみ上げてきた」。
水木には玉砕命令まで出されていたのですが、密林で大量の蚊に襲われたせいでマラリアになってしまい、42度の熱を出して動けなくなったので、玉砕はおあずけ。しかし寝ているときに敵軍の飛行機による空襲に遭遇した水木は、不運にも左腕の一部を失ってしまったのです。
傷口から「バケツ一杯の血」が吹き出しましたが、自分の血液型が思い出せなくなって、輸血は断念。そしてその翌日、軍医が麻酔なしで、「七徳ナイフみたいなもの」で腕の切断手術を行ったそうです。ここでマラリアが再発すれば、完全アウトでしたが、それだけは奇跡的に回避できました。
さらに2ヶ月後、「敵の魚雷艇に99%発見され、攻撃される」と脅されながら乗り込んだ輸送船も奇跡的に攻撃されず、水木はなんとか野戦病院にたどりついています。その後は左腕を失った負傷兵として、比較的行動の自由も生まれ、現地人との交流の中である種の「天国」を味わいつつ、敗戦までの時間を過ごしたのでした。
水木の戦友・山本の遺体は回収不能のまま、朽ち果ててしまいました。山本がくれた万年筆を、水木しげるは彼の遺骨だと思うことにしたそうです(以上、引用は『水木しげるのラバウル戦記(筑摩書房)』から)。

ラバウルの日本兵たち/『大東亞戰爭海軍作戰寫眞記録 1』より
国立国会図書館蔵