「瀬戸内のジャンヌ・ダルク」と呼ばれた戦国の女武将がいた⁉ 日本で唯一現存する女性用の鎧の持ち主【鶴姫】とはどのような人物だったのか?
歴史を生きた女たちの日本史[第17回]
歴史は男によって作られた、とする「男性史観」を軸に語られてきた。しかし詳細に歴史を紐解くと、女性の存在と活躍があったことが分かる。歴史の裏面にあろうとも、社会の裏側にいようとも、日本の女性たちはどっしり生きてきた。日本史の中に生きた女性たちに、静かな、そして確かな光を当てた。

大山祇神社の大祝職(大宮司)の娘として生まれた鶴姫。大山祇神社(大三島宮)に立つ鶴姫像
「天空の城」と呼ばれる美しい城がある。朝靄の中で雲海に浮かぶ様子が、まるで天空に浮くように見えるため呼ばれている。備中松山城(岡山県高梁市)である。標高430㍍の小松山の山頂に建つ天守は2層2階で、天守を持つ山城としては最も高い位置にあることでも知られる。その1部が国の重要文化財に指定されてもいる。戦乱の世に、この城と縁のある女戦士の話が伝えられている。
戦国時代に備中の覇者となった三村氏(宗親・家親)が、以前からあった砦を要塞化して強固な松山城を造り上げた。総称して臥牛山と呼ばれる山々(前山・小松山・天神の丸・大松山)の峯を利用した大要塞である。
天正2年(1574)から始まった「備中兵乱」は、火縄銃で暗殺された三村家親の後継者・三村元親が父の仇である宇喜多直家との抗争をきっかけになった。この戦いは、毛利元就や織田信長までが参戦しての合戦になった。元親は織田氏と、直家は毛利氏と手を握っての戦いである。この戦いで、元親は備中松山城を失う羽目になる。天正3年6月、善戦した者の敗れた元親は、自刃して果てた。
この後、毛利勢6千5百が、元親には因碩になる上野高徳の常山城(岡山県玉野市・岡山市)を攻めた。この城は別名を「児島富士」と呼ばれる標高307㍍の頂上部分を利用した山城であり、瀬戸内海に面している。高徳の妻が、元親の妹・鶴姫(つるひめ)であったことから高徳は元親の「義弟」になる。
常山城を包囲した毛利軍は、2日後に城内に攻め寄せた。二の丸にまで迫る毛利軍に、落城は見えていた。その時、鶴姫が立ち上がった。『陰徳太平記』は、33歳の鶴姫を「大勇気の女房」という。その出で立ちは、鎧に身を固め、その上から経帷(きょうかたびら)を羽織り、白綾の鉢巻き、名工・国平の太刀(約80㌢)を佩き、白柄の長刀を小脇に掻い込み、敵が近づくと太刀を水車のように廻して敵兵5人を忽ちのうちに斬り伏せ、7人に手傷を負わせた。表にいた敵兵は怖れて逃げ出した」とある。
『常山戦記』では、こう書く。敵に立ち向かおうとする鶴姫を部下の女房らが「女性が戦うなどしたら、成仏できません」と必死に止めたが、鶴姫は「そなたらはどこにでも落ち延びよ。私はこの戦場を西方浄土と見なして戦う」と言いざま、城から打って出た。すると女房たち34人も「散るべき花ならば同じ嵐に誘われて死出の道案内をしようではないか」と、髪を解き乱し鉢巻きをし薙刀を引っ提げて鶴姫に続く。すると、はしための女たち83人もこれを見て走り出した。
こうして鶴姫と、即席の女戦士軍団は、毛利勢の先陣・浦野兵部宗勝ら700騎の真っ只中に斬り込んだ。これによって毛利勢は数十人が討たれる。鶴姫は、腰に差した采配を取り出して奮う・先頭に立ち「掛け破れ!者ども」と大声を上げて息も付かずに戦った。
そして馬上の浦上を見つけると「一騎打ちせよ」と迫る。浦上は「女なれば相手に出来ぬ」と避けた。鶴姫は浦上を守る雑兵7,8人を斬り伏せたが、浅手を負った。
「この太刀は父・家親から贈られた名刀国平。死後はそなたに差し上げようから後世を弔ってくだされ」と言い、城内に引き上げた。そして「南無阿弥陀仏」を念じながら太刀を口にくわえて、そのままうつ伏せになった。妻・鶴姫の最後を見届けて、夫・高徳も自刃した。