惨殺された妊婦の霊が宿った「夜泣き石」の伝承 細川幽斎が手にした名刀「小夜左文字」の不思議な繋がりとは?
日本史あやしい話
小夜の中山峠で殺された妊婦。その霊が乗り憑ったのが、「夜泣き石」だと言われる。そこで産まれた赤子が成長した後、刀の研ぎ師となって母の仇を見つけて見事仇討ちを成し遂げたとも。ただし、その峠で奪われたのが、実は金ではなく、短刀「小夜左文字」だったと言い伝えられることもある。それが仇討ち後、山内一豊や細川幽斎らが手にしたとも。いったい、どういうことなのだろうか?
■女の霊が乗り憑った「夜泣き石」とは?
江戸時代の浮世絵師・歌川広重が描いた『東海道五十三次』、その中の「日坂」の絵を覚えておられるだろうか。日坂宿と金谷宿の間にある小夜の中山という峠道を描いたもので、大きな石が街道を塞ぐかのように置かれた実に奇妙な絵である。直径1m以上はゆうにありそうなこの巨石には、実は「夜泣き石」と呼ばれる世にも奇妙なお話が伝えられている。石自体が「夜になると泣く」というのだから、なんとも不思議である。何はともあれ、当地に伝わる伝説を紐解いてみよう。

『東海道五拾三次 日坂・佐夜ノ中山 (東海道五拾三次)』/国立国会図書館蔵
この小夜の中山峠(静岡県掛川市)、かつては箱根峠や鈴鹿峠とともに、東海道の三大難所として知られるところであった。標高は252mとさほど高所ではないものの急坂が多く、その上、盗賊がはびこるところとしても恐れられたところであった。
物語の書き出しは、お石なる身重の女性が、この峠に差し掛かったところから始まる。仕事先の菊川からの帰り道、この峠にたどり着いたところで、急に陣痛に見舞われて苦しんだという。そこをたまたま通りがかったのが、轟業右衛門なる浪人(山賊とも)であった。最初こそ健気に介護していたものの、女の懐に巾着が入っているのが目に入って豹変。何と女を斬りつけて、金を奪おうとしたのである。
女は逃げる間も無く、無残にも斬り殺された。それでも、近くにあった巨石にも刀が当たったことで、お腹の子が傷つくことはなかった。その場で子が産まれ、その泣き声を近くの久遠寺の和尚が聞きつけて救い出したというお話である。赤子の泣き声があまりにも大きかったことを訝り、その霊が乗り憑った石が泣いたものと思われるようになった…というのが、「夜泣き石」と呼ばれた所以である。伝承によっては、石から子が産まれたと言われることもあるが、果たして?
ともあれ、その奇怪な現象がまことしやかに語り継がれたことで、この「夜泣き石」の人気がうなぎのぼり。歌川広重の『東海道五十三次』に描かれたように、半ば観光名所のごとき様相を見せていたのである。明治14(1881)年には、浅草で催された「勧業博覧会」にも出品。ハリボテの石の中に子供を入れて泣かせ、その声を客に聞かせて金をとるという見世物小屋まで出て繁盛したという。
一方、斬りつけた側の男は逃走。女を斬りつけた刀も、石にぶつかったことで少し欠けた。これが、この物語のその後の進展の糸口となるので、覚えておいていただきたい。
■刃こぼれから突き止めた母の仇
事態が急展開したのが、それから10数年後のことであった。その間、久遠寺の和尚に拾われたこの赤子、音八と名付けられて寺で育てられていた。乳の代わりに水飴を作って食べさせながら育てられたとも言い伝えられている。その音八が成長して生業として目指したのが、刀研ぎ師であった。
大和国で評判の研ぎ師の弟子となってしばらくしてからのこと。とある客が刃こぼれしている刀を持ってやってきた。不思議に思って何気無く問うや、男はかつて小夜の中山で妊婦を斬りつけ、その際石に当たって欠けたのだと、口を滑らせてしまったのである。即座に母の仇と悟った音八、早々に名乗りを上げて、見事仇を討って恨みを晴らしたのだとして話を終えるのである。
その伝説の石が、実は今も残っている。小泉屋という名の茶屋(子育飴を販売)の裏手に鎮座するのがそれだとか。
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