長嶋茂雄「どうだろう、アメリカに行っていたかもしれないな」ドジャースとの天覧試合でもホームランを記録、幻となったメジャーリーグ
あなたの知らない野球の歴史
■巨人との関係を重視していたドジャースオーナー
1974年10月14日、筆者は後楽園球場のスタンドにいた。阪神ファンの一人だったが、彼だけは別だった。彼は444号のホームランを放ち、試合が終わり場内を一周、最後は「巨人軍は永遠に不滅です」というスピーチ、スタンドから「まだやれる」「引退はまだまだ早い」といった悲鳴に近い声が聞こえる中、17年間の選手生活を終えて38歳でバットを置いた。
彼にまつわるエピソードは枚挙にいとまがない。ここでは巨人と長嶋をドジャースとの関係で眺めてみたい。
1957年1月のことだ。ドジャースとの親交が始まった巨人は、鈴木惣太郎を団長に水原円裕(のぶしげ、茂)監督、別所毅投手、堀内庄投手、藤尾茂捕手ら選手3人をキャンプに送り込んだ。ドジャースのオーナーだったウォルター・オマリーはアジア志向が強くあり、巨人との提携を重く見ていた。オマリーは「別所だけがメジャー選手としてつかえる」と鈴木に話している。注目されたのはその後の長嶋だけではなかったのだ。通算310勝、稀代の鉄腕投手はまだ健在だった。オマリーは日本にファームを持ちたいといい始め正力松太郎がこれを断っている。
1961年、巨人はチームとして初めてドジャース・キャンプに参加した。父親からの指示を受けて息子のピーター・オマリーは巨人の世話をしている。巨人とピーターとのつながりはここから始まった。巨人の選手は飛行機で移動する球団の飛行機、ドジャー・タウンの広大さに驚きを隠せなかった。このときかつてドジャースの監督も務めたレオ・ドローチャー・コーチはキャンプで長嶋を見て「それにしてもあのバックナンバー3はすごいね。第一やる気があるよ。腕、腰、走るのがいいね、バッティングもシャープだし」と大絶賛だった。長嶋の躍動感あふれたプレーを見て驚きを隠せなかったようだ。オルストン監督も長嶋にドジャースに来ないかと声掛けしている。
正力は、ドジャースの日本でのファーム構想は困難、「長嶋は出さない」と鈴木に話していた。ようやく海外キャンプに参加するようになったばかりで、日米間にトレードなど含めて協定など準備もあるはずもない。だが、日米野球が盛んになり、アメリカでのキャンプが日常化すれば当然浮上する問題でもあった。
オマリー会長は長嶋獲得には御執心だったようで、来日すると正力にトレードを話している。その後、長嶋は記者にその時のことを回顧して「本場からのお誘いですよ。もし、その場で『どうする?』なんて聞かれたら、どうだろう、アメリカに行っていたかもしれないな」と述べている。
■2度の天覧試合でホームランを放つ
よく知られているが、長嶋は大舞台には大変強かった。いい例が、1959年6月25日の天覧試合、巨人対阪神。夜9時を過ぎ試合は4対4の同点で9回裏、天皇が席を離れる直前のタイミングだった。村山実投手からサヨナラホームランを放って勝負強さを見せつけた。これだけではない。1966年ドジャースが2度目の日米野球で来日した時だ。11月6日、全日本対ドジャース戦、昭和天皇が臨席する2度目の天覧試合、再びホームランを放っている。
2回の天覧試合で8打数6安打、3ホームランと無類の働きを見せつけた。試合後ごく少数の関係者が白金台にある旧迎賓館に招かれ午餐会に参加、席上天皇から声掛けもありそのときの写真は「家宝です」と答えている。
さて鈴木惣太郎は戦前ベーブ・ルースを説得して訪日させた功労者だが、ルースは引退直前ながら日本でホームランを13本放っている。その数本を所有していた鈴木はかつて長嶋に1本プレゼントしていた。長嶋巨人が初優勝した時、テレビでのインタビューで、惣太郎が「このルースのサイン入りバット、私の遺言と思って受け取ってほしい」と言われたことを感慨深く紹介、長嶋は「惣太郎先生からの記念品ですからね。もう宝物ですよ。家の床の間に飾ってありますよ」と答えている。鈴木との師弟関係は長嶋の浪人時代、ドジャースに送り込んだことも含めて鈴木の永眠まで続いている。
訃報を知ったかつての盟友ピーター・オマリーは「長嶋茂雄氏の訃報は、私にとって非常につらいことです。」と追悼の言葉を紹介している。長嶋を巡る逸話については記憶に残したいとする人は数多くいるだろうが、いつか長嶋語録といった書籍が出版されるだろうことは想像に難くない。

読売巨人軍長嶋茂雄ランニングロード。長嶋茂雄は現役時代の一時期、伊豆の国市(旧大仁町)で自主トレを行っていた