時代の「潮流」を読み名門を存続させた山名豊国
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第74回
■山名家存続のために「潮流」に従った山名豊国

鳥取城跡(鳥取県鳥取市東町)の石垣。築城した武将については諸説あり、分家の因幡山名氏である山名誠通の可能性と、主家の但馬山名氏である山名祐豊の可能性が指摘されている。
山名豊国(やまなとよくに)は室町幕府の四職の家柄で、応仁の乱で有名な山名宗全の血を引く武将ですが、鳥取城を放棄して単身で織田家に降伏したため、非力な戦国武将のイメージを持たれていると思います。
しかし、豊国は山名家の分家を継承し、新旧の勢力が激しく争う中国地方において、一進一退の攻防を繰り返しながら勢力の維持に努めています。
一方で、室町の名家でありながらも、新興勢力である毛利家や織田家と誼を通じるなど、その出自や家格に囚われずに、情勢の変化を受け入れて的確に行動しています。
戦国時代に多くの名門が滅びていく中で、山名家の家名を残す事ができたのは、その「潮流(ちょうりゅう)」を読む力にあったと思われます。
■「潮流」とは?
「潮流」とは辞書によると、「海の潮の流れ」という意味とは別に「社会や文化、思想など、時代を動かす大きな流れや動向」という意味もあります。
似た言葉で「趨勢」にも、大きな流れや時代を動かす力という意味がありますが、「潮流」は思想や文化、歴史など抽象的なものをさします。
そのため、戦国時代のような大きな流れが幾度も変化する環境において、「潮流」を読む力は非常に重要になってきます。
豊国は不確実性が高い状況下で、「潮流」を読む力に優れていたと思われます。
■山名家の事績
山名家は、河内源氏の源義国(みなもとのよしくに)を祖とする新田義重の家系に連なる名門です。鎌倉時代において、早い段階で源頼朝の御家人となったことで、足利家と同様に一門衆の扱いを受けています。
南北朝の騒乱においては山名時氏(ときうじ)が、足利尊氏に従って南朝勢力と戦っています。観応の擾乱では、一時的に幕府と対立しますが、その後に帰参すると侍所を交代で任されるようになり、京極家や一色家、赤松家と並んで四職と称されるようになります。
征夷大将軍に次ぐ地位である管領の細川家、畠山(はたけやま)家、斯波(しば)家の三家を加えて、三管領四職と言われています。
時氏の子供たちの時代には、長男師義(もろよし)が丹後国・伯耆国に始まり、五男時義(ときよし)が美作国・但馬国・備後国と、兄弟合わせて11ヵ国の守護となり、六分一殿と呼ばれる全盛期を築きました。その後、明徳の乱によって大幅に領国を減らしたものの、応永の乱や嘉吉の乱での活躍で再び勢力を拡大させます。
しかし、山名宗全(そうぜん)が応仁の乱で西軍の総大将となり、1473年に死去すると、山名家は勢力を大きく減退させていきます。
豊国の時代には、かつて六分一殿と呼ばれた山名家の勢力は、但馬一国と因幡の一部を辛うじて維持するのも難しい状態に落ち込んでいました。
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