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戦国ドロドロバトル! 兄弟同士で戦にまで発展した後継争い‼ 名将・上杉謙信の跡をめぐる【御館の乱】─上杉景勝vs上杉景虎─

戦国最強兄弟武将ランキング#02

 

御館跡
上杉氏の本拠・春日山城の麓にあった御館は乱の激戦の舞台。現在は御館公園として整備され、碑が残る。

 

■上杉謙信が後継指名せず死、他将を巻き込んだ大合戦に

 

 天正6年(1578)3月13日、上杉謙信が居城の春日山城で急死した。死因は不明だが、脳溢血ともみられている。享年は49 だった。

 

 妻帯しなかったとされる謙信には、当然のことながら実子はいない。そのため、養子を迎えていた。そうした養子のなかで家督継承候補となっていたのが、上杉景勝と上杉景虎である。景勝は、謙信の姉の子であり、謙信にとっては甥にあたる。一方、景虎は北条氏政の弟で、越相同盟を機に謙信の養子となって以来、越相同盟が破綻したあとも養子縁組は解消されず、越後に留まっていた。そして謙信が生前に後継指名をしていなかったことから、景勝と景虎が家督を争う事態に陥ってしまう。

 

 最初に行動をおこしたのは、景勝のほうだった。景勝は、謙信の死後、すぐさま遺言と称して春日山城の本丸を占拠し、ここにあった軍資金や武器などを接収するとともに、対外的にも自らが後継者であると訴えた。このため、慌てた景虎も、春日山城の三の丸に入り、景勝と対峙する。この間に戦闘も起きているが、結局、5月13日夜、景虎は妻子を伴って春日山城を脱出すると、御館に立て籠もったのである。この御館は、謙信が関東管領・上杉憲の り政ま さのために築いていた居館だった。こののち、御館の景虎が景勝に抵抗を続けたとの歴史認識から、一連の戦いを御館の乱と呼ぶ 景勝側には謙信の側近や旗本の大多数が加担し、景虎側には上杉一門衆と周辺の大名らが加担した。このようにして、どちらの陣営につくかが鮮明になると、越後国内の各地で戦闘が起き始めたのである。こうしたなか、景虎の兄にあたる北条氏政は、甲斐の武田勝頼に景虎支援を要請した。北条氏と武田氏が、同盟を結んでいたためである。これにより、越後・上野の国境から北条勢、越後・信濃の国境から武田勢が、景虎の救援に赴く。このため、戦局は景虎が優勢であった。

 

 ところが、景虎が頼りとした武田勝頼は、こともあろうに景勝と和睦してしまう。『甲陽軍鑑』によれば、景勝から賄賂を贈られた武田家臣である跡部勝資と長坂光堅が勝頼に和睦を進言したというのだが、事実は確認できない。実際には、領土の一部割譲という条件を受け入れただけというのが実情のようである。

 

 それはともかく、景勝と和睦した武田勝頼は、信濃から越後に向かうと、上杉氏の本拠地である越後府中に入った。ここで、勝頼は、景勝と景虎の和睦仲介にのりだしている。この結果、景勝・景虎間の和睦が成立しているが、これで争乱が終わったわけではない。武田勢が甲斐に帰国するやいなや、和睦は崩壊し、再び、景勝と景虎による内乱が再開してしまうのである。

 

 このころになると、戦局は景勝が優勢となっており、越後国内の国衆から見限られた景虎は、次第に追い詰められていく。そして天正7年2月1日、景勝が大軍で景虎の本拠・御館を攻撃し、城下を焼き払った。さらに3月17日、景勝方からの総攻撃を受けた御館では、謙信に関東管領職を譲った上杉憲政が、景虎の嫡男・道満丸を伴い、景勝との和睦を仲介するため春日山城に向かおうとする。しかし、その途中、憲政と道満丸は景勝方に殺されてしまった。

 

 抗戦の不利を悟った景虎自身は越後国内での抵抗を諦め、兄の北条氏政がいる小田原城に逃れるため、相模に向かった。その途次、堀江宗親が守る鮫ヶ尾城に立ち寄ったところ、すでに宗親は景勝方に寝返っていたらしい。宗親が景勝に内応したことによって進退窮まった景虎は、3月24日、自刃したのである。

 

 景虎が自害したあとも、景勝と景虎一党との争いは続く。しかし、最終的には景勝が越後を統一し、謙信の後継者となった。

 

監修・文/小和田泰経

 

『歴史人』2025年6月号『戦国最強兄弟武将ランキング』より

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