狩りの相棒か、愛玩目的か、食用肉か……古代日本の人々と犬の関係とは?
先日、纒向遺跡で出土した犬の骨から5年の歳月をかけてその姿の復元に成功したというニュースがありました。そういえば犬と我々のかかわりは、いつ、どのように始まって現在に至るのでしょうか?
■縄文時代から人と犬は共に過ごしてきた
縄文時代の遺跡からは今のところ約400か所から犬の骨が出土しているそうです。もっとも古い犬の骨は神奈川県や愛媛県、佐賀県の縄文遺跡から出土した縄文早期(9000年~6500年前)のもので、墓穴に埋葬された状態の出土もありました。
縄文時代の犬はおおよそ中型から小型サイズで、全身骨格が一か所から出土することが多く、それは丁寧に埋葬された犬の墓であることの証拠となります。
日本列島の犬は縄文時代には飼い慣らされて、人と一緒に暮らし始めたと考えられています。その理由は縄文時代が採集狩猟生活だったことによるもので、犬は狩りの相棒として働く大切な存在だったと考えられるからです。
ある説では、人間二人に犬が一匹というチームを組めば効率的な狩りが成立するといいます。犬が獲物を吠えたてて人が待ち伏せする場所に追いやり、これを仕留めるという方法です。出土する犬の骨には牙が折れたり骨折した跡があったりするので、かなり大きな獣に勇敢に挑んだ姿が想像されます。
犬が縄文時代には人に懐き主人に従順に従っていたことがわかりますし、そんな犬に愛情を以って接していた縄文人の姿も見えるようです。縄文犬は単なるペットではなく、食糧調達という超重要な家族同然の仕事仲間だったのです。
そして時代は弥生時代へと移行します。今回纏向遺跡で発見されて復元された犬は弥生犬と呼ばれています。弥生時代は渡来した弥生文化人によって主導された時代ですので、稲作をはじめとした農業の時代です。時に狩猟もしたでしょうが食糧の主体は農産物に移行しますので、犬の役割が変わります。もちろん敵の侵入や害獣の接近を知らせる警報装置の役割はあったでしょうが、頻繁に狩猟に出かける相棒の役割は大きく縮小したのでしょう。
そして縄文時代のように埋葬されて出土する頻度が極端に低くなります。つまり全身骨格が一か所から出土せず、ばらばらの状態で発見されることが多くなり、骨には切断された解体痕などが見られます。
つまり食糧とされていたのではないか、という疑いが濃くなるわけです。毛皮をはぎ取られて防寒用衣服に使用された可能性も骨片の調査から指摘されています。 弥生時代にも犬は飼われて可愛がられたと思うのですが、そういう犬骨が発見され始めると犬を食べる食習慣のある人々の時代だったのかと考えさせられます。たしかに東アジアには犬食文化があったと聞きます。
今回復元された纏向遺跡の犬骨は重要建造物エリアの溝跡から出土したそうですので、はたして埋葬されたかどうかは疑わしい感じですが、全身骨格がそろっていることから、迷い込んだ犬がそこで死んだ可能性も無きにしもあらずですね。
そして気になるのは『日本書紀 天武天皇四年の条(675年)』にある「肉食禁止令」です。これはたびたび出されたようで「牛馬犬鶏などを食べてはならない」という詔です。ここにわざわざ「犬」とあるのが目を引きます。つまり天武天皇の飛鳥時代後期には犬を食べることが多かった、もっと言えば普通だったのではないかとも思われます。時代によって犬に対する扱いと心情が縄文時代から大きく変化しているように思えてなりません。
最新のゲノム研究では縄文人と弥生人の間に大きな違いがみられ、さらに古墳時代に大勢の渡来人が列島に移住して来て、その子孫が現代の我々であるという説があります。ゲノムは体に埋め込まれた動かされざる系統の履歴ですから、非常に興味深い研究です。
時代によって犬の役割も変化しますので扱いも変化して当然ですが、生活の相棒から食用へという変化はあまりにも大きすぎて、文化や価値観、もしくは民族・文明の入れ替わりがあったのではないかとも思うくらいです。
ただ1995年の阪神淡路大震災の時に、家族や家を失った愛玩犬が山に逃げ込んで野犬集団化した事実もありますので、古代の巨大災害に襲われた時に犬たちの運命がどう変わったのか、昔の人々がその時々犬にどういう目を向けていたのかはわかりません。
しかし犬は平安時代には貴族に飼われ、愛玩動物として現代にも愛され続けています。飛鳥時代の聖徳太子にも白い雪丸という愛犬がいたといわれていますので、太子は犬を食用とせず可愛がっていたのですね。まあ、その雪丸も人語を話し、経を唱えたという伝説がありますから、本当に犬だったのかどうかは不明ですが!(笑)
古来、犬と人との共生の歴史にはさまざまな変遷があったことがわかりましたが、生活の相棒として始まったという関係には素直に納得できますね。

著者の愛犬・ジャッキー
撮影:柏木宏之