精緻な壁画を持つ高松塚古墳とキトラ古墳の被葬者は誰だ? 世界遺産登録を目指す明日香村の「壁画古墳」
世界遺産登録を目指す明日香村に、今のところ日本で二つしか発見されていない「壁画古墳」と呼ばれる貴重な古墳があります。その高松塚古墳とキトラ古墳について考えてみましょう。いったい誰のお墓なのでしょうか?
■古代の高度な美術と技巧を今に伝える貴重な「壁画古墳」の継承
古墳は3世紀半ばから造られ始めて8世紀初頭まで築造されているので約450年間にわたって全国で造られ続け、現在全国に約17万基あるとされていて、それはどこにでもあるコンビニエンスストアの3倍の数だといわれています。そして今も毎年古墳は発見され続けているのです。
その中に主に九州地域で特徴的に見られる「装飾古墳」というカラフルな石室を持つ古墳があります。主に熊本と福岡にみられ、幾何学模様や線画が多色で彩られた石室や石棺が異彩を放ちます。
そういった装飾古墳と区別される壁画古墳との違いは、描かれた絵の違いです。壁画は石室の内面に漆喰を丁寧に塗って白いカンバスを作り、そこに細筆で精緻に描かれる絵画で、神獣や人物、星空などが現代絵画のように極彩色で丁寧に描かれています。
全国に無数にある古墳のうち、高松塚とキトラの両古墳にだけ完成度の高い壁画が描かれているはなぜでしょうか? それは時代と場所、さらには被葬者によるものだと思われます。

高松塚古墳全景。二段築盛の小型円墳だが、石室には豪華な壁画が描かれていた。
撮影/柏木宏之
両古墳とも7世紀末から8世紀初頭の藤原京時代に築造された終末期古墳です。どちらも二段円墳ですが、高松塚古墳の方が一回り大きいと考えられます。それぞれ東西南北に四神が描かれていて、天井石に描かれた星空は高松塚は星座を描いた星宿図で、キトラが世界最古の学術的天文図です。
また高松塚からは盗掘されたために破壊されて出てこなかった南を守る朱雀が、キトラ古墳からは出てきました!まさに火の鳥ともいえる見事に羽ばたく神の鳥です。
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「キトラ古墳壁画体験館四神の館」に展示されている、南壁のレプリカに描かれた朱雀。日本では唯一の例となる。
画像提供/国営飛鳥歴史公園
そのほかの違いといえば、高松塚の東西面には男子群像や女子群像が描かれ、キトラでは獣頭人身十二支像が描かれていました。

「高松塚古墳壁画館」に展示されている、西壁女子群像。
画像提供/古都飛鳥保存財団
両古墳に共通するのは、二段円墳の横穴式石室で実に精緻な筆遣いと極彩色の顔料や金銀箔を惜しみなく使用していることでしょう。
高貴な人物の古墳が巨大だった時代を経て、何度も出される薄葬令、さらには寺院を建立する時代になっている事などから、外見は小規模な円墳ですが中身は王族級の古墳だったのです。盗掘されていなかったらどんなに豪華な副葬品が出土していたかわからないですね。
そして被葬者の推理ですが、この時代に亡くなった高貴な人物はある程度特定されます。さらに埋葬された場所が、皇族が多く埋葬される明日香檜前(ひのくま)地域であること、円墳であることなどから様々な推理がなされています。
この時代の天皇陵は八角墳ですから被葬者は天皇ではありません。造営時期と出土した骨片などの分析による推定年齢からすると、やはり天武天皇の皇子の誰かではないかという説が有力なようです。候補者皇子としては、高松塚古墳には忍壁(おさかべの)皇子・穂積皇子・草壁皇子・弓削(ゆげの)皇子、キトラ古墳には高市(たけちの)皇子・長(ながの)皇子などが挙げられているようです。
キトラ古墳の場所は阿部山と呼ばれる地域で、天武朝の高級官人の右大臣阿倍御主人(あべのみうし)の可能性も否定しきれないと考える人もいます。
結局どちらの古墳も盗掘されて遺物も破片程度しか検出されず、墓碑も無く、例によって被葬者の特定はできていませんが、超一流の研究者によって以上のように絞られてはいます。ここは遠慮なく、古代史ファンのあなたも被葬者推理に参加しましょう。ただし、後世に出来るだけ長くこの古墳を残さなければならない責任も私たちにはあるのです。
どちらの古墳も壁画の劣化が激しく、解体して切り取る以外に保存方法が見出せず、実に慎重に古墳が解体されました。文化財の価値観からすると、解体されて復元された両古墳はすでにオリジナルではなく、あくまで現代に再現された古墳なのですが、二例しか無い超貴重な本物の壁画を後世に伝承するためには致し方なかったとしかいえません。
貴重な文化財を調査して、維持をして、未来に残す、という大変な努力を行政機関や研究者たちは続けているのです。そして国家形成の姿が残る「飛鳥・藤原宮都」が世界遺産に登録されて後世に伝えられるために、私たちも協力を惜しむわけにはいかないと思うのですが・・・。