大河ドラマ『べらぼう』策略を巡らせる一橋治済の妻子はどんな人物か? 9男4女に恵まれて権勢を誇る
大河ドラマ「べらぼう〜蔦重栄華乃夢噺〜」第17回「乱れ咲き往来の桜」では、蔦重(演:横浜流星)が新之助(演:井之脇海)と再会したことで子どもが読み書きを学ぶための“往来物”に目を付け、販路を拡大させる。一方、田沼意次(演:渡辺謙)は、家基(演:奥智哉)の急逝を受けて次期将軍候補を探すが、なかなか最適な男子がいない。一橋治済(演:生田斗真)は何か企んでいる様子だが……といった展開だ。さて、今回はそんな一橋治済の妻子がどのような運命を辿ることになるのかを解説する。
■男子に恵まれたおかげで他家の養子に出して権勢を拡大
一橋(徳川)治済は、8代将軍・吉宗の孫で、父は吉宗の四男である宗尹だった。治済には兄がいたが、長兄は越前国福井藩の藩主を継ぎ、もう1人の兄もその後継者として福井藩主となったため、治済が一橋家を継ぐことになった。
明和4年(1767)、家督を継いだ治済は、正室として京極宮公仁親王の娘である在子女王を迎える。高貴な姫君だったが、治済と結婚したわずか3年後の明和7年(1770)にこの世を去ってしまった。
正室を喪った治済が側室にと望んだのは、大奥の女中をしていたお富の方という女性だ。この女性の父は岩本正利という。岩本家は元々紀州徳川家に仕える家で、吉宗が将軍となるべく江戸に移った時に随従して紀州系の幕臣の家だった。安永元年(1772)に一橋家の屋敷に移ると、翌安永2年(1773)10月に男児を出産。豊千代と名付けられたこの男児こそ、後の11代将軍・家斉である。
一説には、家斉を次期将軍に擁立できた裏には大奥の支持もあり、そこには生母であるお富の方がかつて大奥女中だったことも影響していた可能性が指摘されている。そんなお富の方は、息子・家斉が将軍位に就いても大奥には入らず、治済と共に一橋の屋敷で過ごしていたという。
治済の次男・治国の生母は、丸山氏出身の女性だ。治国は兄が将軍になったため、一橋家の世子となったが、寛政5年(1793)に18歳の若さで死去した。三男・斉隆の生母は、お富の方なのか丸山氏なのか判然としない。斉隆は天明2年(1782)に福岡藩主・黒田治高の養子となって、わずか6歳で黒田家の家督を継いだ。
五男・斉匡の生母は丸山氏で、安永8年(1779)に誕生。天明7年(1787)に、田安家を継いだ。田安家は長らく明屋敷(跡継ぎがいない場合でも、その屋敷や領地、家臣団を解体せずに存続させている状態)になっており、それを継いだ形である。
こうして兄たちが将軍や藩主、御三卿の他家の当主になっていったため、一橋家の家督は安永9年(1780)に誕生した六男・斉敦が継ぐことになった。寛政11年(1799)に治済が隠居すると20歳で家督を継ぎ、一橋家3代当主となった。
天明5年(1785)に誕生した七男・義居は、一時治済が御三卿のひとつである清水家の養子に入れて家督を継がせようとしていたと考えられている。もしその通りになっていれば、御三卿すべての家の当主に治済の子が就くという事態になった。しかしさすがに反対する声も大きかったために結局実現せず、紆余曲折を経て美濃国高須藩の松平義当の養子になった。その後家督を継いだものの、文化元年(1804)に20歳の若さで死去している。
ここまでで登場していない、四男、八男、九男はいずれも元服前に早逝している。また、4人の姫のうち四女・紀姫は後の肥後国熊本藩9代藩主・細川斉樹の正室となって長生きしたが、他の3人の姫は幼くして亡くなった。
治済の権勢の始まりは、やはり10代将軍家治の息子であり次期将軍だった家基が急死した時点で、清水家に男子がおらず、田安家も定信が白河藩主の養子になっていたために明屋敷状態で、将軍位を継げる男子がいなかったことだ。無事に成長した男子も多かったことから、同じ御三卿の家である田安家の当主や後継者がいない有力な藩主の家に息子を差し出せたことも大きい。
後に11代将軍になる家斉は歴代将軍のなかでも随一の子だくさんだったが、子づくりこそ自身と家の繁栄に繋がるということについては、父・治済自身が手本になっていただろう。

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