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小銃の性能差がもたらした幕末の戦場の実態とは? 第二次幕長戦争における石州口の場合

軍事史でみる欧米の歴史と思想

■幕府軍と長州軍がぶつかった大規模な陸戦のカギを握った小銃と戦略

 

 幕末維新期の大規模で本格的な陸戦としては、1866年の第二次幕長戦争があげられる。この戦争では、幕府側の軍勢計10万人と長州藩軍3,500人あまりが対峙したと言われる。そこでここでは、日本海側の石州口で同戦争を実体験した幕府側の福山藩士某の書簡「福山藩某書翰抄書」を、次の二書に基づき紹介したい。その二書とは、幕末に関する著作の多い野口武彦の『長州戦争―幕府瓦解への岐路』と竹本知行の労作『大村益次郎』のことである。

 

 福山藩士の某によると、長州人は「合図で散兵に分かれても二人ずつくらいの撃ち方で、草木の影や農家の屋根などから撃ち出してきて、体は顕わさず、一つの場所から二発は撃ってこない」。「(発砲)煙を目印に撃たれることを避け、一発撃ったら場所を変え、特に立って弾を装填せずに皆寝てやっているよう」だ。長州兵は「猿のよう」に敏捷で、「接近してくると、散兵は広く散開しているので、大人数のように思えてしまう」。一方、「我が家中の(福山藩)兵は、はじめは十分に広がっていても、敵が接近してくると(恐怖心で)次第に小さく窄んでしまうので、ますます被弾してしまうようだ」(以上、竹本の現代語訳)。

 

 では、長州兵の銃弾を被弾するとどうなったのか。この戦争では、「刀や槍で傷ついた者は一人もいない。ことごとく銃創である」。貫通銃創もあり、銃弾が体内にとどまっている盲管銃創もあって、「時には腹の皮と肉の間に弾丸が残り、自分で掘り出して抜くといった恐ろしい負傷もある」。「常識で考えるととても助かりそうもないが、弾丸さえ抜ければ意外に治癒も早い」。それゆえ、具足や脛当は着けない方がよい。「急所でなくても足を撃たれると、脛当の鎖が肉の中にめりこんでひどい傷になる。いくら掘り出しても全部は摘出できず、いつまでも治らないで大変な苦しみをもたらす」からだ(以上、野口訳)。

 

 そこで、福山藩士は次のような結論に達した。「戦場に出るなら具足、ならびに赤・白・黄色の筒袖や陣羽織、大口袴の類は、決して着用してはならない」。具足着用のまま尖り弾のミニエー弾を被弾すれば治癒が遅れて苦しむし、派手な色彩の服装は長州兵に狙い撃ちされるからである。加えて「小銃は、銃身の内部が施条されたミニエー式ライフル銃を使うべきである。銃身内部が施条されていないゲヴェール式滑腔銃は、射程が短く、命中精度が粗いため、決して使うべきではない」と複数人が語っていた(以上、野口著を拙訳)。

 

 このような戦場の実態から、当時の長州藩の散兵戦術―tacticsのオランダ語を答苦知幾(タクチーキ)と当て字していた―が効果的に機能していたことがわかる。またこの戦術が有効に機能したからこそ、石州口では専守防御の持久戦を展開するという当初の防衛戦略から、攻勢戦略―strategyの蘭語を斯多良的義(ストラトギイ)と借字ずみ―へと転換したのであろう。小銃の性能の優劣、つまりライフリング(施条)の有無による射程や命中精度の差が、幕末当時の日本の軍服や戦術、ひいては戦略を大きく変えていったのである。

朝廷からの勅命を受けて、長州征討のために江戸を出立する14代将軍家茂。
『徳川十五代記略 十四代家茂公御進發之圖』/東京都立中央図書館蔵

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布施将夫ふせまさお

京都外国語大学・京都外国語短期大学教授、学生支援部長。京都大学博士(人間・環境学)、関西アメリカ史研究会代表幹事。専門は19世紀後半における欧米の軍事史。主な著書に『補給戦と合衆国』(松籟社,2014)、『近代世界における広義の軍事史―米欧日の教育・交流・政治―』(晃洋書房,2020)、『欧米の歴史・文化・思想』(晃洋書房,2021)など。

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