めちゃくちゃ女好きだった「仁徳天皇」 皇后の目を盗み、コソコソ密会 『古事記』『日本書紀』に記された浮気の手口とは
日本史あやしい話
好色かつ多情な仁徳天皇が、嫉妬深いことで知られた皇后・磐之姫の目を盗んでお気に入りの女性たちと逢瀬を重ねようとした姿が、『古事記』や『日本書紀』に連綿と記されている。いったい、どんな手口を使って皇后の目を盗もうとしたのか? その方法に注目したい。
■愛人の家に「兵」を送った北条政子、それに並ぶ「嫉妬深い皇后」とは?
歴史上の「嫉妬深い女性」といえば、真っ先に源頼朝の妻・北条政子を思い浮かべる方も少なくないだろう。
政子が頼家を身ごもっていたときのこと、頼朝はこっそり妾の家に通って逢瀬を楽しんでいたという。しかし、それをなぜか義理の母・牧の方が察知。すぐに政子の知ることに。政子は激怒し、すぐさま妾が住む隠れ家に兵を送り込んで、散々打ち壊させたというから恐ろしい。
一方、愛人への仕打ちを知った頼朝はといえば、正面切って政子を責めることもできず、館を襲撃した牧の方の父・宗親のもとどりを切り落としたことで、怒りを収めなければならなかったというから、なんとも情けない。天下の頼朝公のイメージ、ガタ落ちである。
この政子の嫉妬深さもよく知られるところだろうが、歴史を遡れば、もう一人、どうしても忘れてならない女性がいる。それが、仁徳天皇の皇后・磐之姫(いわのひめ)だ。
■聖帝・仁徳天皇の「もう一つの顔」とは?
仁徳天皇といえば、何よりも、人家のかまどから炊煙が立ち上っていないことを案じて、租税を3年間免除したという善政を施したことで知られた天皇である。「聖帝」とまで呼ばれたというから、えら〜いお方だったというべきだろうか。
しかし、この御仁、実はもう一つの顔を持っていた。それが、好色あるいは多情と揶揄される一面である。そして、嫉妬に狂う皇后を殊のほか恐れていた恐妻家であった。
もちろん、天皇となれば世継ぎをもうけるのも仕事のうち。本来なら、皇妃が何人いようが、非難されるほどのことはない。
それでも、磐之姫の嫉妬ぶりが常道を逸していたためか、天皇はコソコソとお気に入りの女性たちとの密会を繰り返さざるを得なかったというのが実情であった。
その理由は、彼女の特異な性格によるもので、かつ夫のこれまた異常とも思える好色ぶりにあったのかもしれないが、もう一つ、磐之姫の出自にも気にかけておく必要があるようだ。
彼女の父の名は、葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)。祖父は、数々の有力氏族の祖ともいわれる武内宿禰(たけのうちすくね)である。ヤマト王権の主権者といえども、磐之姫が大和きっての豪族・葛城氏の出自とあっては、無下にするわけにもいかなかったのだろう。
■「淡路島を見物する」とウソをつき、愛人のいる吉備へ
そんな嫉妬深い皇后を持ちながらも、仁徳天皇は彼女の目を盗んでは、お気に入りの女性たちとの密会を画策した。
吉備の海部の直の娘・黒姫(黒日売/くろひめ)との密会も、同様であった。この黒姫の場合は、一度は宮中に招き入れられたものの、皇后に妬まれるのが恐ろしくて、早々に生まれ故郷・吉備へと逃げ帰っている。ただし、すんなりと帰れるわけではなかった。
難波の大浦まで来たところで、皇后が送り込んできた使者に船を降されてしまったからである。そこから吉備まで徒歩で帰らざるを得なかったというから、皇后の執念や恐ろしい。
それでも、未だ黒姫に未練が残る天皇、またもやありきたりの一計を案じた。今度は、「淡路島を見物する」と皇后に嘘をついて、そのまま淡路島を通り過ぎて吉備に向かったのである。この時の二人の逢瀬の模様は、『古事記』に連綿とつづられている。
■お気に入りの女官も、皇后の嫉妬を怖がり…
そればかりではない。仁徳天皇の異母妹・雌鳥皇女(女鳥王/めとりのひめみこ)にも恋をしたというから、この御仁、やはり相当好色である(当時は、異母であれば兄弟姉妹での恋愛も比較的大目に見られた)。
ただし、彼女の場合は、その逢瀬がさらなる不幸を招いてしまったことも見逃すわけにもいかないだろう。なぜなら、彼女を妃にしようとしたものの、天皇の異母弟・隼別皇子に、ちゃっかり奪い取られてしまったばかりか、雌鳥皇女も隼別皇子も、最後には反逆罪として殺害されてしまったからである。
そのほか、仁徳天皇お気に入りの女官・桑田玖賀媛(くがひめ)を妃として迎え入れようとしたこともあったが、彼女も皇后の嫉妬が恐ろしくて結局は実現しなかった。
そのときの天皇の悔しがる様子が、正史であるはずの『日本書紀』に詳細に記されているというのも、なんとも奇妙というべきだろう。
■皇后が出かけている隙をつき、宮殿に女性を連れ込む
また、彼のお相手としてよく知られるのが、八田皇女(やたのひめみこ)である。彼女は応神天皇の娘であり、こちらも仁徳天皇にとっての異母妹である。
天皇は彼女を妃として迎え入れたいと皇后に相談。しかし、彼女が承知するわけもなかった。
そこで天皇が実行したのが、実に単純極まりない一手。つまり、皇后がたまたま熊野に出かけている隙を突いて、宮殿の中に招き入れてしまうというものであった。
もちろん、すぐに皇后にばれ、烈火のごとく怒られることとなる。皇后は実家のある山城に帰って、二度と天皇の前には現れなかった。
一説によれば、八田皇女が応神天皇の娘となれば、家柄は自分よりも格上。それを妬んだから、と見られることもあるようだが、どうだろうか?
むしろ、王権への貢献度が最も華々しい葛城氏、その出自としてのプライドゆえに、葛城氏以外の妻を娶ることを許せなかったのではないだろうか。その後の葛城氏が、仁賢天皇に至るまで8人もの天皇(安康天皇を除く)が、葛城氏の娘を皇妃あるいは母としているというのが、その権勢の大きさを物語っている。
八田皇女の場合は、磐之姫が亡くなった後、無事に継室の座に収まっているからまだ運が良かったが、その他の女性たちは、ことごとく磐之姫の嫉妬に苦しめられたようである。
ともあれ、皇后の嫉妬に怯え、策を弄してお気に入りの女性たちとの密会を繰り返していた仁徳天皇。女性面においては、聖人君子というわけではなかったというべきかもしれない。

仁徳天皇陵