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2026年大河ドラマの主役【豊臣秀長】は兄・秀吉の天下統一を陰で支えた名補佐役だった

知っているようで意外に知らない「あの」戦国武将たち【第33回】

 

豊臣秀長(東京都立中央図書館蔵)

 

 豊臣秀長(とよとみひでなが)は、史上最強のナンバー2といわれる。実力がありながらも、出しゃばらず、兄・藤吉郎(秀吉)を陰で支え続けた。恐らく、豊臣秀長が存在しなかったならば、「豊臣秀吉の天下」もあり得なかった、と評価される名補佐役である。

 

 秀長は、天文9年(1540)に生まれた。幼名を小一郎という。兄の秀吉とは4歳違いであり、父親が秀吉とは違う弟(異父弟)ともいわれる。だが、研究者によっては、2人の父親は同じ人物であった、という。その理由は、秀長の兄(秀吉)に対する態度は、従順さといい、裏表のない尽くし方といい、同じ血が繋がった兄弟ならでは、の忠誠心が見られるからである。伝えられる秀長の性格は、温厚であり、真面目一筋であったという。事実、史実として残るエピソードなども、秀長については褒められはしても悪く言われることは1つもない。それだけに、秀吉は弟の秀長を誰よりも大事に思い、誰よりも信頼していた。

 

 ほかに、信頼できる親類のない秀吉にとっては、貴重以上の大きな存在であった。歴史にイフはないといわれるが、もしも秀長が長命を保っていたならば、豊臣家は豊臣秀頼の代で滅亡することなく、続いたようにも思われる。もう1つ、秀長の不幸は「家を継ぐ嫡子に恵まれなかった」ことにも尽きよう。

 

 秀長の特技ともいえるものは、その温厚な人当たりと他人への寛容さ、無益な争いを避けるための説得術などがあろう。それでいながら経済政策にも通じていて、領地経営も上手であった。むしろ秀吉よりも、武将たちは秀長を信頼したからこそ、秀吉に従った、という部分もあった。後のことになるが、「秀吉の迷走」が始まるのも秀長没後のすぐ後からであることを考えれば、秀長の存在の大きさはよく分かる。

 

 織田信長の時代。秀吉に従った秀長は、天正9年(1581)、秀吉の但馬平定後の但馬を治め、播磨を領すると姫路城に入って経営に当たった。「本能寺の変」後の天正13年には秀吉とともに紀州の雑賀・根来討伐に参戦、平定後は紀伊・和泉を与えられた。同年6月の四国征伐には、病気の秀吉に代わって遠征軍を指揮した。秀長はわずか50日で難敵・四国の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)を下している。秀吉は喜び、先の2ヶ国に加えて大和を与え、秀長は3ヶ国100万石の領主となった。従2位権大納言に任じられたことと大和郡山城に住んだため「大和大納言」と呼ばれた。秀吉政権では「内々の儀は宗易(千利休)、公儀のことは宰相(秀長)に相談されよ」といわれるほどの片腕になっていた。

 

 その後も秀長の手腕は発揮され、九州征伐でも豊臣軍の指揮官として島津勢を降伏に追い込むなど戦さの面でも力を発揮した。

 

 しかし、秀長は(秀吉同様に)嫡子に恵まれず、甥の秀保(ひでやす/秀長の姉の子ども)を養子にするなど苦労の一面もあった。秀長は、天正19年(1591)1月22日に52歳で病死した。この頃から険悪になっていた秀吉と利休の仲がこじれ、秀長が亡くなった1カ月後に、利休は秀吉から切腹を命じられる。秀吉政権の屋台骨は、こうして崩れていったのだった。秀吉ばかりか、豊臣家にとっても、秀長の死は、手痛い死となった。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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