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南北戦争最大の激戦・ゲティスバーグの戦いはなぜ、どのように始まったのか?

軍事史でみる欧米の歴史と思想

 

■1863年7月1~3日に繰り広げられた激戦

 

 1861年に始まったアメリカの南北戦争では、大きく三つの地域で戦いが繰り広げられた。北部の首都ワシントンDCと南部の首都リッチモンドが近接する東部戦線と、ミシシッピ川流域の広大な西部戦線、大西洋やメキシコ湾の沿岸海上区域がそれである。とりわけ東部戦線における緒戦では北軍が劣勢で、南軍が優勢であった。しかも当時、綿花王国と呼ばれていた南部から綿花を輸入したかったイギリスは、むしろ南部に好意的であった。

 

 このようなヨーロッパ列強が南北戦争に干渉し、南部に味方することを人道上阻止する意図も込めて、エイブラハム・リンカン大統領は、18631月に奴隷解放宣言を発布した。その結果、南部は独力で、軍事的な勝利だけを追求せざるを得なくなる。国力の点で南部は北部に遠く及ばないため、持久戦にはなるべく持ち込みたくない。そこで南軍のロバート・リー将軍は、乾坤一擲(けんこんいってき)の戦いによる速戦即決を求めて、DC攻略を企てたのである。この首都攻略という地理的発想には、クラウゼヴィッツよりもジョミニの影響がうかがわれる。

 

 18636月にリーは、南軍の戦域軍である北ヴァージニア軍73,000名を率い、カルペパー駅から徒歩で北上していく。ペンシルヴェニア州まで北上しきってから南下し、DCを攻撃する予定であった。また南軍別動隊のスチュアート騎兵部隊は、北部の電信切断など北軍の後方攪乱の目的で、東南に一度迂回してから北東へ移動していった。この不穏な動向を察知した北軍の戦域軍のポトマック軍115,000名は、北ヴァージニア軍とDCの間を遮るかのようにポトマック河畔から北上していく。南北両軍の主力同士の決戦が迫っていた。

 

 このような危機に際し、北軍の軍用鉄道局(USMRR)の現場責任者ハーマン・ハウプト准将は、ペンシルヴェニア州州都のハリスバーグからDCのヘンリー・ハレック総司令官(少将)らに緊急情報を打電し続けた。630日のハウプトの電信は、リー麾下の各軍団が、(ゲティスバーグの西方の)チェンバーズバーグかその近くに集結中、と伝えていた。しかし、71日早朝のハウプトの度重なる電信では、リーの各軍団計92,000名がゲティスバーグに集結中、と兵力の過大評価以外はほぼ正確な情報を伝えてきたのである。

 

 DCとポトマック軍の間の電信網はスチュアート部隊に切断されていたため、ハウプトの緊急電は、速達や特使でポトマック軍司令官のジョージ・ミード少将に送られた。遅延したものもあったが、情報を得たミードは、名将リーとの決戦の覚悟ができたであろう。なお、ゲティスバーグでは、南軍の先発師団と北軍騎兵の戦いが71日朝8時から始まった。

3日間に渡って戦いが続いたゲティスバーグの地。
米国国立公文書館所蔵

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布施将夫ふせまさお

京都外国語大学・京都外国語短期大学教授、学生支援部長。京都大学博士(人間・環境学)、関西アメリカ史研究会代表幹事。専門は19世紀後半における欧米の軍事史。主な著書に『補給戦と合衆国』(松籟社,2014)、『近代世界における広義の軍事史―米欧日の教育・交流・政治―』(晃洋書房,2020)、『欧米の歴史・文化・思想』(晃洋書房,2021)など。

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