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実は「最強の武者」であった【徳川家康】は負け組だった⁉─100戦して99敗しても最後の1戦に勝てばよい─【イメチェン!シン・戦国武将像】

イメチェン!シン・戦国武将像【第15回 徳川家康】


我慢強く、機会をうかがいながら不屈の闘志で天下人へと上り詰めた徳川家康(とくがわいえやす)。実は彼の人生は負け戦ばかりであった。だが彼の考え方や生き方を貫き、見事、天下を取ったのだという。


 

 

 三河(愛知県東部)の弱小大名から成り上がり、最後には天下統一を果たした徳川家康。「東海一の弓取り」と織田信長にも褒め上げられたように、常に「武」を重んじた武将であった。家康は、寄って立つ基盤も弱く、幼少期には今川家に人質にされるなど苦難を経験しながら、不屈の闘志でこれを乗り越え、天下人に上り詰めた英傑とされてきた。

 

 だが実際の家康は「最強の武者」でありながら、信じられないことだが、合戦では常に「負け組」にいた武将であった。ただ家康は、運の良さを常に味方に付けて戦った武将でもあった。

 

 家康は、三河の小さな勢力であった松平家に生まれたために、常に大国の脅威にさらされる中にいた。そして幼少時に先ず、織田家(信秀/のぶひで)に。続いて今川家(義元/よしもと)に人質となり、苦難の日々を過ごした。同時に今川家臣団も、家康とともに、今川家では苦労した。その苦労が、強い徳川軍団を作り上げたことも確かであったが、合戦は先ず、負け組から始まっている。

 

 織田信長が義元を討ち取った永禄3年(1560)5月の「桶狭間合戦」でも、今川家にいた家康は負けたことになる。しかし義元の討ち死にが、家康を独立させるることになった。その意味では、家康は「運の良さ」を引き寄せたこともまた確かであった。。

 

 その後、勢力を拡大する信長と連繋した家康は、甲斐の武田信玄と戦うことになるが、あらゆる戦いが不利に展開した。その最たるものが元亀3年(1572)12月の「三方ヶ原(みかたがはら)合戦」である。居城・浜松城に立て籠もっていた家康を尻目に、武田軍団は通り過ぎる。30歳の家康は、「戦うこともしないで、信玄に屈するのは武将ではない」として、果敢に野戦を挑むが、完膚なまでに敗れてしまう。この合戦での徳川・織田連合軍側の死者は武将級まで含めて1200、負傷者は限りなし、という敗戦であった。天正年間には、遠江(とおとうみ)・高天神(たかてんじん)城を甲斐・武田勝頼(たけだかつより)に奪われるという負け戦も経験した。この後の「長篠・設楽ヶ原(したらがはら)合戦」では勝頼に勝利したものの、ウマ味の部分は信長にさらわれている。

 

 天正7年(1579)には、信長の命令で、正室・築山殿(つきやまどの)と嫡男・信康(のぶやす)を自害させるという「家康生涯の悲劇」も起きている。武田勝頼を滅亡させた「甲斐・信濃侵攻戦」でも、主体は信長の織田軍団であった。ただし、武田家を滅亡させたことで、家康は駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の5ヶ国の大名になれた。これもまた、家康の運の良さにほかならない結果となった。

 

「本能寺の変」では堺にいた家康は、這々(ほうほう)の体で三河に逃げ戻った「伊賀越え」も、形の上では負け戦。続く「小牧・長久手の戦い」も、野戦では善戦したものの、外交的な駆け引きを始め「政治的には負け戦」であり、秀吉の前に膝を屈っするしかなかった。以後は忠実な豊臣家の家老的存在の座に甘んじた。秀吉が病死し、その2年後の慶長5年(1600)9月の「関ヶ原合戦」で、家康はやっと大勝利を掴んだ。59歳であった。

 

 生まれるからほぼ還暦まで、敗戦を経験し続けた家康は、だが敗れる度に再起し前を向き続けたバイタリティそのものの精神を持っていた。そして62歳で、征夷大将軍になった家康という人物は、現在でも勝負の際にいわれるような「100戦して、99敗しても、最後の1戦に勝てばよい」という人生を生きた武将であった。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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