日本人なら誰もがその名を知っている「ヤマトタケル」の出自とは⁉
「古事記と日本書紀」#3
ヤマトタケルという人物について、名前は知っているけど、どんな人でだれの子なのか…を知っている人はそれほど多くはない。ここではヤマトタケルの出自について語る。
■2つ名前があった⁉ 太子と生まれたヤマトタケル

日本武尊の像(石川県金沢市)
明治13年(1880)、日本で最初に建てられた銅像といわれている。
『古事記』では「倭建命」、『日本書紀』では「日本武尊」と記されるヤマトタケルは、日本書紀によれば、16歳で熊襲(クマソ)の征討におもむき、30 歳の時に東の蝦夷の平定を終えて、傷つき斃(たお)れていくといった波瀾の生涯を閉じた人物として描かれている。
まず、出自から確認しよう。古事記・日本書紀によれば、ヤマトタケルは、景行(けいこう)天皇と播磨のイナビノオオイラツメの間に生まれた子である。古事記・日本書紀によれば、この母は、吉備臣(きびのおみ)の祖であるワカタケキビツヒコの流れを汲む。
ヤマトタケルは、古事記によれば、ワカタラシヒコ・イオキイリヒコと並んで「太子(たいし)」であった。しかし、父親に愛されてはいなかった。そのことを名前によって明らかにしよう。ヤマトタケルは古事記・日本書紀では、最初にオウスノミコト(小碓命/小碓尊)として登場する。その兄は、オオウスノミコト(大碓命/大碓尊)である。紀によれば、オウスノミコト、オオウスノミコトという名前は、双生児が生まれたことを忌々しく思った景行天皇が、臼に向かって叫んだ事による命名だという。オウスノミコトの名前には「祝福されない忌々しい小さな碓の子」という意味が込められている。
しかし、ヤマトタケルには実はもう一つの名があった。それは、ヤマトオグナ(倭男具那/日本童男)である。その名前の意味するところは、「倭(日本)のすぐれた童男」だ。この名前は、古事記・日本書紀では、ヤマトタケルが自身を名乗る場面で登場する。
双生児の存在を否定しようとする父と双生児である自分自身を必死に肯定しようとする息子、この葛藤を止揚したのが、ヤマトタケルという名前である。
監修・文/森田喜久男