【日本古代史ミステリー】「聖徳太子」という名前は”当時の呼び方”ではなく”後世の呼び名”だった⁉
令和の定説はコレだ!古代史【研究最前線】
聖徳太子にはいまだにいくつもの「謎」がある。「聖徳太子」という名ですら、わかっていないことがあるという。
■聖徳太子は当時の呼び方ではなく後世の呼び名

唐本御影
法隆寺に伝わったもの(宮内庁蔵)を明治時代に写したもの。右側が弟の殖栗皇子、左側が息子の山背大兄王とされているが、実際のところは不明である。
奈良国立博物館蔵/ColBase
聖徳太子とはもちろん彼の生前の名前ではなく、その薨去(こうきょ)後に生前の威徳(いとく)を讃えて呼称されたものである。実名は厩戸皇子(うまやとのみこ)といった。厩戸皇子は、養老4年(720)に成立した『日本書紀』の段階ですでに「豊聡耳聖徳(とよとみみしょうとく)」と呼ばれていた。聖徳太子という呼称は奈良時代の半ば過ぎには成立していたようである。
聖徳太子とは彼をひとつの理想像として称賛しようとする意図から作られた名前であるから、それは明らかに実像とは別次元の虚像の呼称なのである。かつて大山誠一氏によって提唱された「聖徳太子非実在説」は、その虚像がどうして生み出されたのかを解明しようとした研究であって、聖徳太子の実像である厩戸皇子の存在を根底から否定しようとするものではなかった。宮内庁所蔵の有名な「聖徳太子像」は厩戸皇子の実像ではありえず、それが「唐本御影(とうほんみえい)」と呼ばれているように、聖徳太子が生きた時代よりも1世紀以上も後の、中国風の衣冠を身に着けた人物の画像にすぎないのである。
■聖徳太子の実名である厩戸の意味とは?
厩戸皇子は「厩戸豊聡耳(うまやととよとみみ)」「豊耳聡」などとも呼ばれている。豊聡耳・豊耳聡は美称であり、いわゆる和風諡号(しごう)の一種であろう。6世紀前半から半ばにかけて世襲王権が成立したのにともない、亡くなった治天下の大王(おおきみ/後の天皇)に日本風の贈り名がたてまつられるのが恒例となった。安閑(あんかん)天皇に「広国押武金日(ひろくにおしたけかなひ)」、宣化(せんか)天皇に「武小広国押盾(たけおひろくにおしたて)」といった諡号が献上された例が知られている。厩戸皇子は即位することはなかったが、天皇に准ずる地位にあったので和風諡号が献じられたのであろう。
厩戸は諱(いみな)=実名(じつみょう)と考えてよい。これは厩戸皇子がイエス・キリストのように馬小屋で生まれたことによるとされる。だが、彼は厩皇子ではなく厩戸皇子なのである。『日本書紀』は、その母穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひえみこ/欽明/きんめい/天皇皇女)が臨月を迎えながら宮中を巡幸中に厩の扉(これが厩戸である)にあたった拍子に安産で厩戸皇子を出産したことによる命名と説明している。『日本書紀』の段階で厩戸の意味がすでに不明になっていたために、このような牽強付会(けんきょうふかい)の話が作り出されたのであろう。
■厩戸は生まれた場所ではなく王宮の名前だった
厩戸皇子のような身分の諱はその幼少期の養育(乳母)をまかされた豪族の名前(ウジナ)が採られることが多く、ウジナはその豪族の本拠地をあらわす地名である場合が大半を占めた。だが、厩戸のウジナや地名は確認されていない。ただ近年、厩戸は厩坂(うまさか)という地名と同じ場所を指すのであり、7世紀前半に実在した厩坂宮(うまやさかのみや)の存在が注目されている。厩坂宮が蘇我氏の勢力圏であった畝傍山(うねびやま)東南麓にあったことからすれば、蘇我氏出身の母をもつ穴穂部間人皇女の居所であった厩坂宮が厩戸皇子誕生の地であった可能性は考えられる。

聖徳太子生誕の地とされる橘寺
奈良県明日香村にある橘寺は、聖徳太子建立七大寺の一つとされている。元々は欽明天皇の別宮があり、その厩戸で聖徳太子が誕生したと伝わっている。
監修・文/遠山美都男