『写真週報』創刊号の表紙撮影は木村伊兵衛!政府の広報誌でありながらクオリティの高いグラフ誌が誕生
国民に大きな影響力を発揮した雑誌『写真週報』から読み解く戦時下【第1回】
戦前から戦中にかけて、内閣情報部(のち内閣情報局)から写真をメインとした情報誌が刊行されていた。国策宣伝が目的の『写真週報』である。最大時は20万部を売り上げた写真週刊誌とはどんなものか、見ていくことにしたい。第1回目は戦争前夜の創刊号だ。

記念すべき創刊号の表紙写真は、20世紀を代表する写真家の木村伊兵衛が撮影。当時、国家総動員法が交付され、木村をはじめとする著名な写真家が、内閣情報部傘下の写真協会に所属させられていた。
『写真週報』とは、のち内閣情報局となる内閣情報部が刊行していた週刊のグラフ雑誌である。昭和13年(1938)2月16日付の創刊号から、終刊となる昭和20年(1945)7月11日付の374・375合併号まで、370冊を発行。
写真週刊誌といえば、昭和56年(1981)創刊の新潮社『FOCUS(フォーカス)』が草分け的存在と位置付けられている。1980年代はその後、同じようなコンセプトの写真週刊誌が各社から発刊された。警察や政治家といった、権力者側の不祥事を暴いた社会派の記事は世間の耳目を集めたが、次第に芸能人のスキャンダルを扱った、暴露記事が主流を占めるようになっていった。
こうした戦後の写真週刊誌と写真週報を同列に語ることはできないが、何となく同じようなイメージを抱いてしまう。決定的に違うのが、写真週報は「国策のグラフ誌」という点だ。従って国益を損なうような記事は、掲載されていないのである。それでも写真が持つリアリティは、多くの読者を魅了していた。昭和16年(1941)3月時点の発行部数が、約20万部を数えたことからも窺(うかが)い知れる。
この当時発刊されていたグラフ誌の中で、最も部数が多かったのは『アサヒグラフ』である。それでも発行部数は数万部に過ぎなかったので、写真週報は文句なく「東洋一のグラフ誌」であった。同年7月に行われた読者調査によると、読者の男女別比は男性約62%、女性約38%、同じく年齢別比は25歳までが65.6%、26歳から60歳までが30.3%、61歳以上が2.1%という結果になった。
これらの数字から、読者の中心は青少年だということがわかるが、驚くべき数字がもう一つある。それは1冊の平均読者数。つまり何人が1冊の雑誌を読んでいるか、というもの。それによれば、平均読者数は10.6人という数字が弾き出された。これを発行部数と掛け合わせると、写真週報1号あたりの読者は200〜300万人ということになる。現代感覚からすれば、まさにお化け雑誌だ。今回はそんな写真週報の創刊号を見てみたい。

2月に発刊された創刊号に掲載された写真は、正月の風景が多くを占めている。取材先に静岡県の伊豆が選ばれているのは、富士山を被写体として、お正月気分を盛り上げる効果を狙ったのであろう。
まず注目したいのが表紙。子供たちが「愛国行進曲」の楽譜を持ち、合唱している姿が写されている。これを撮影したのは写真界の巨匠、木村伊兵衛(きむらいへい)だ。スナップやポートレートの傑作を数多く残した写真家ならではの、どこかほのぼのとした空気感が伝わる作品。
昭和13年という年は、前年の7月に起こった盧溝橋(ろこうきょう)事件に端を発し、日本と中国が全面戦争となっていた年である。そのような影響もあり、中国戦線の様子を伝えた記事が目を惹いた。とはいえ、戦闘場面などではなく、兵士の散髪や入浴、食事風景といったのどかなものだ。最大の楽しみとして、故郷からの便りが届いた際の写真も掲載されている。

中国のどこかは記載されていないが、戦闘の合間に兵士たちが見せるくつろいだ様子を伝える記事も掲載。身内が出征している読者は、どこかに身内が写っていないか必死に探した。
それと対をなすのが、様々な銃後の様子を紹介した記事。静岡県田方郡西浦村と内浦村(いずれも現在の沼津市)で取材・撮影されている。どの写真からも、直接戦争を連想させる要素は感じられない。グラフ誌ならではの見開きの写真は、同じく西浦村で撮影されたものと思われる、駿河湾越しに見える富士山と対面し、子供たちが体操する様子。

グラフ誌ならではの大胆な見開きページ。はっきりと場所は特定されていないが、銃後の生活を紹介した静岡県田方郡西浦村(現沼津市)の風景と思われる。
そのほか、近衛文麿(このえふみまろ)首相の正装姿の写真、満州国の正月風景、厚生省という役所の役割を解説する企画などが掲載されている。このように当初は全体的に文字が少なめで、写真が物語る真実を全面的に押し出していた。

写真をコラージュして、ヒトラーとムッソリーニを大きく扱い、世界情勢をビジュアルのみで紹介している。