【偉人メシ】頼朝から学ぶ!無敵の筋肉武士に仕上げる食事法
偉人メシ
毎日元気に過ごすために、全体に欠かせないことの1つが食事! 鎌倉幕府を開いた源頼朝も、日々食事をとっていました。「教科書に登場する“あの”偉人はどんなご飯を食べていたんだろう?」という疑問を、彼らの好きだった食べ物からひも解いていきます。
■「偉人メシ」ってなに?
「歴史は苦手!でも料理や食べることは大好き!」というキッズたち、教科書に登場する歴史上の人物たちが食べていたといわれる料理を作ってみませんか?
料理を監修してくれるのは、食事復元研究の第一人者で御年90歳ながら現役で大活躍中!食文化研究家の永山久夫先生!
「でも、偉人たちが食べていたご飯では、今のボクたちの味の好みとは合わないかも・・・」そんなお悩みを解決してくれるのは、人気料理研究家のきじまりゅうたさん!
令和版にアレンジした栄養満点&映える『偉人メシ』にも、ぜひ親子でチャレンジしてみてね!
今回の偉人は・・・
源頼朝

出典:ColBase
いったいどんなご飯を食べていたのかな…?
■源頼朝って、どんな偉人?
清和源氏(清和天皇の系統の源氏)の源義朝(みなもとのよしとも)の三男として生まれた頼朝。
13歳の時に起こった平治の乱(平清盛と源義朝の対立から起こった争い)に敗れ伊豆に流され、約20年に及ぶ流人(流刑に処せられた人)生活を送りました。
平氏と対立していた頼朝はその後、「源平合戦」で平氏を討ち倒し、政治の実権を朝廷から奪い武家政権を確立、鎌倉幕府の初代征夷大将軍となりました。
■味も骨肉強化にもピッタリ!鮭の干物『楚割(すわやり)』

鮭の楚割
頼朝が好んで食した、鮭の楚割(すわやり) 【材料】 鮭とば(秋鮭を細かく切り海水で洗い、そのまま干したもの/お好みの量で)
【作り方】 お好みの量の鮭とばを、手や包丁で一口大の大きさに裂き、南天などの飾り葉を添えて盛り付ける。
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源平合戦は源氏・鎌倉勢の勝利となり、時代は一気に武士の手に握られました。食事も京風の貴族タイプのものから、荒削りな武士スタイルのものに大きく変わっていきます。
征夷大将軍となった源頼朝(1147-1199年)は、健久元年(1190)に京に上り、朝廷に参じた折り、途中の遠江(静岡県)の宿所に泊まりました。すると、守護(国を守る役職)の佐々本盛綱が鮭の楚割(干物)に小刀を添えて、頼朝に届けに来ました。
「味がとてもよいので、間を置かず、すぐに召し上がってください」という使者の口上がありました。頼朝は大いに喜んで、小刀で削って味見したところ、予想以上の美味しさに、非常に喜んだといいます。
鮭の楚割が武士に好まれたのは、仕上がりが美しいだけではなく、美味しく、食べると体の骨肉が強化されることを、経験的に知っていたからです。事実、鮭には体中の筋肉を強くするアミノ酸が豊富に含まれています。
鎌倉武士は、富士の裾野などでよく巻狩り(獣を四方から取り囲み、追い込んで狩猟する方法)もしていて、鹿や猪の肉を味噌煮込みで平らげたり、火あぶりにして食べたりしていました。
主食(主なエネルギー源)は玄米飯で、根菜類中心の具だくさんの味噌汁がつきました。武士の膳に梅干しがのるようになったのも鎌倉時代からです。戦って疲れのたまった筋肉から疲労物質を解消するうえで、梅干しのクエン酸が役立ったのです。
鎌倉の前海で獲れるカツオやイワシ、貝類を普段からよく食べていて、鎌倉武士好みというべき食事法が、彼らを無敵の筋肉武士に仕上げていたのです。軽食として「かい餅」(おはぎのような伝統的なお菓子)があり、そば粉を練って湯がいたそば餅説とぼた餅説がありますが、前者の方が説得力があるといえるでしょう。
しかしその後、頼朝に突然の不幸が襲いました。移動中に落馬し、それが原因で急死してしまったのです。享年53歳でした。
歴史人2022年5月号より
監修/永山久夫
ながやま ひさお/1932年福島県生まれ。食文化史研究家。古代から明治時代までの食事復元研究の第一人者。長寿食や健脳食の研究も行う。新聞や雑誌、テレビなどでも活躍中。
料理監修/きじまりゅうた
きじま りゅうた/1981年東京都生まれ。料理研究家一家の三代目。男性のリアルな視点から家庭料理を提案している。NHK「きじまりゅうたの小腹すいてませんか?」を始め、
テレビや雑誌等を中心に活躍中。
編集:杉田俊人 撮影:渡部聡 スタイリスト:吉岡彰子