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江戸時代から続く300年論争!邪馬台国はいったいどこにあったのか─畿内?九州?─

今月の歴史人 Part.1


畿内か、九州か──遥か江戸時代から歴史学者や考古学者のみならず、様々なアマチュア研究家まで魅了して、論争の終わりが見えない邪馬台国の所在地問題。


 

■江戸時代から延々と続く終わりなき邪馬台国研究

 

新井白石
邪馬台国研究は「正徳の治」で知られる新井白石や、国学者・本居宣長らも研究した。(国立国会図書館蔵)

 

 古代史上、最大の問題のひとつである邪馬台国(やまたいこく)については、研究史も長く江戸時代にさかのぼる。6代将軍・徳川家宣(いえのぶ)、7代将軍・徳川家継(いえつぐ)の侍講(じこう)となり政治をリードした新井白石(あらいはくせき)は、邪馬台国研究のパイオニアでもあった。

 

 白石は、『古史通或問(こしつうわくもん)』で邪馬台国の所在地を大和としたが、のちに『外国之事調書(がいこくのことしらべがき)』の中で筑後国山門郡(現在の福岡県山門郡)として考えを改めた。しかし、江戸時代は北部九州説は少数派であり、本居宣長(もとおりのりなが)も大和説であった。

 

 明治時代になると、所在地論争は熱をおび、東京帝国大学の白鳥庫吉(しらとりくらきち)は肥後(北部九州説)に邪馬台国の所在を求めたのに対し、京都帝国大学の内藤湖南(ないとうこなん)は畿内説を展開し、邪馬台国論争はいつしか学閥論争のようになっていた。

 

吉野ヶ里遺跡
昭和61年に発見され、邪馬台国九州説を加熱させた。

 

 その後、『魏志』倭人伝の距離と方角にみられる矛盾を伊都国から先を直線ではなく、伊都国を起点とするという解釈をした榎一雄(えのきかずお)が出たりした。しかし、邪馬台国論争は収まらず、吉野ヶ里遺跡(1989年に発見)が出ると北部九州説が勢いを持ち、纒向遺跡(まきむくいせき/2009)が注目されると畿内説が有利になるといった状況で、いまだ結着がつかないが、近年は畿内説の支持が多いといえよう。

 

監修・文/瀧音能之

歴史人2023年10月号『「古代史」研究最前線!』より

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