【死闘後に繰り広げられた美談】敵兵422名を助けた駆逐艦艦長・工藤俊作は一切を語らず鬼籍に入る
世界を驚愕させた日本海軍の至宝・駆逐艦の戦い【第3回】
自らの危険を顧みることなく、漂流中のイギリス軍将兵422名を救助。これを賓客として扱った駆逐艦の艦長がいた。堂々とした体躯の持ち主ながら、おおらかな性格から「工藤大仏」と渾名された、駆逐艦「雷」艦長・工藤俊作(くどうしゅんさく)少佐である。

工藤俊作は明治34年(1901)に山形県で生まれた。海軍兵学校第51期卒。大戦末期には体調を崩したことにより、昭和20年(1945)3月15日に待命となった。最終階級は海軍中佐。
「おい、助けてやれよ」
重油が浮かぶ海面を漂流している多くの敵兵を発見すると、駆逐艦「雷(いかづち)」の艦長は静かに命令を下した。その瞳に映っていたのは、死闘を演じた“敵”ではなく、瀕死の状態で助けを求める“友”を見る光であった。
昭和17年(1942)になると、ジャワ島攻略を目論む日本軍を阻止するために、アメリカ(American)、イギリス(British)、オランダ(Dutch)、オーストラリア(Australian)が連合して、ABDA艦隊が編成された。だが各国海軍の信号用符号を制定する暇もなく、指揮系統に大きな不安を抱えての出撃であった。
同年2月になると、日本軍はジャワ島攻略を目的とした行動を開始。陸軍部隊を乗せた輸送船団と、護衛の日本海軍艦隊が大挙、ジャワ島を目指して進撃を開始した。これを迎撃しようと待ち伏せていたABDA艦隊と、2月27日から3月1日にかけインドネシアのスラバヤ沖で繰り広げられた激しい海戦が、スラバヤ沖海戦である。
この戦いは、日本側の完全勝利で幕を閉じた。日本側の被害は駆逐艦「朝雲(あさぐも)」と輸送船1隻が大破したのみ。一方のABDA艦隊はオランダ海軍の軽巡洋艦「デ・ロイテル」「ジャワ」、駆逐艦「コルテノール」が沈没。アメリカ海軍の駆逐艦「ホープ」が沈没、重巡洋艦「ヒューストン」が小破、イギリス海軍は重巡洋艦「エクセター」、駆逐艦「エレクトラ」「エンカウンター」「ジュピター」が沈没。加えて司令長官であったオランダ海軍のカレル・ドールマン少将が戦死している。

スラバヤ沖海戦で、日本軍からの激しい砲撃を受けるイギリスの重巡洋艦エクセター。ジャワ島攻略のため進出してきた日本軍を迎撃するために布陣していた連合軍は、壊滅的な大敗を喫してしまう。
「おい、助けてやれよ」
スラバヤ海戦で沈没した艦に乗り組んでいた将兵が海上を漂流しているのを発見すると、駆逐艦「雷」艦長・工藤俊作少佐は、静かに命令を下した。海戦は日本側の大勝利だったとはいえ、周辺は敵潜水艦が遊弋する危険海域だ。実際、前日には日本の病院船の救命ボートが攻撃され、158人が犠牲となっている。
見て見ぬふりをしてその場を離れたとしても、決して非難されることではない。にもかかわらず、工藤艦長は「救難活動中」を示す国際信号旗を掲げ、機関を停止してまでしてイギリス兵の救助を命じたのである。
この時、海上で絶望と闘いながら漂っていたのは、イギリスの駆逐艦「エンカウンター」の乗員であった。彼らは日本の駆逐艦が近づいてくるのを見ると、激しく動揺したのである。誰もが「機銃掃射を受け殺される」と思ったからだ。
ところが日本の駆逐艦は、危険を顧みずに救助活動を始めたではないか。これを見て安心したのか、長時間漂流で体力を失い、救助のロープを掴んだところで気力も尽き、海中に沈んでしまう者が相次いだ。
「雷」の乗組員たちは、重油の浮かぶ海に飛び込み、力尽きた敵兵を拾い上げる。そして最終的には422名が救助された。ちなみに「雷」の乗組員は220名なので、その倍近くという敵兵を迎え入れたことになる。

「雷」は一等駆逐艦「吹雪」型の23番艦で、昭和7年(1932)8月15日に就役。開戦時は吹雪型4隻で第6駆逐隊を編成。スラバヤ沖海戦では僚艦と共に英重巡エクセター、駆逐艦エンカウンター、米駆逐艦ホープを撃沈。
重油まみれのイギリス兵達を、日本兵はアルコールで清め、きれいなシャツと半ズボンと運動靴を支給。さらにホットミルクとビール、ビスケットを与えている。その後、イギリス海軍の士官21人が集められた。その前に立った工藤艦長は威儀を正した敬礼をした後、流暢な英語で
「諸君は果敢に戦われた。今、諸君は大日本帝国海軍の名誉ある賓客である」
と、スピーチした。
救助された将兵は翌日、勾留中のオランダ病院船「オプテンノール」に引き渡された。「雷」を離れる際、士官達は工藤艦長に挙手の礼をとり、兵達は手を振って感謝の念を表した。こうして世紀の救助劇は幕を下ろした。
工藤艦長はその後、駆逐艦「響」艦長に就任し、中佐に昇進。だが病がちとなったため、陸上勤務となり終戦を迎えている。
戦後、工藤氏は海軍時代の同期会や戦友会に顔を出すこともなく、昭和54年(1979)1月に亡くなっている。最後まで沈黙を貫き、この救助劇は日本で知られることはなかった。
この美談が脚光を浴びたのは、救出されたイギリス海軍士官のひとり、サムエル・フォール元海軍中尉が、工藤艦長に会って謝意を表し、日本の武士道精神を世界に広く知らしめたい、との思いで1987年に救出劇をアメリカ海軍の機関誌に寄稿したことがきっかけとなった。フォール卿は戦後、外交官として活躍し、海上自衛隊の護衛艦が英国に寄港するたび、工藤氏の消息を尋ねていたのだ。
だがすでに工藤氏は他界していて、本人に謝意を伝えることは叶わなかった。それでも2003年、海上自衛隊の観閲式に招待され、護衛艦「いかづち」艦上で救出劇を語った。これが、日本人が工藤氏の素晴らしい行いを、知るきっかけとなったのである。