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明智光秀は「本能寺の変」決行のために「比叡山焼き討ち」で4000人を虐殺した!?

日本史あやしい話11


明智光秀といえば、本能寺の変で信長を死に追いやった人物であったことは言うまでもない。一時的とはいえ、天下獲りに成功した光秀。その実現のために、ひたすら隠忍自重。信長の命ながらも、大量虐殺ともいえる「比叡山焼き討ち事件」にすら、積極的に関与した。奇妙なことに、単に主君の命というだけでなく、「光秀自身が比叡山に恨みを抱いていた」との説もある。いったい、どういうことなのだろうか?


 

■出自も定かでない明智光秀

 

落合芳幾「明智日向守光秀」 (東京都立図書館)

 

 明智光秀はなぜ、信長に反旗を翻して「本能寺の変」を巻き起こしたのか? いうまでもなく、戦国時代最大級の謎である。非情な信長を恨んでのとっさの行動であったとか、世の中を正そうと義憤にかられたという説、朝廷あるいは幕府による陰謀説、さらには光秀自身の野望によるという説などなど、諸説が飛び交い過ぎて収拾がつかない。

 

 その真相はともあれ、張本人である光秀自身もまた、実に謎めいた人物であった。美濃の明智氏支流の出自と言われるものの、伝えられる系譜が一定せず、父が誰であったのかさえ、はっきりとはわからないのだ。

 

 可能性があると思われるのが、曽祖父が駿河守であった明智頼尚で、祖父が長山城主の光継(頼典)だったというあたりか。とはいえ、父に至っては、光継(祖父と同名というのが気になる)、光國、光隆などなど、諸説が飛び交い過ぎている。

 

 ともあれ、ここで頭に入れておいていただきたいのが、祖父・光継のことである。この御仁、もとは長山城城主として東美濃の明智荘を治めていたとして知られる人物であったが、その後日談が気にかかるのだ(詳細は後記)。

 

 ちなみに、この光綱の娘・小見の方が、斎藤道三の継室である。信長の正室となった濃姫の母でもある。つまり、光秀と信長が極めて近しい姻戚関係にあったことも頭に入れておきたい。

 

 ただし、光秀がこの縁をもって信長に臣従したわけではない。祖父・光継が美濃の国主・斎藤道三に仕えていたことから、自身も道三配下になった。その後、道三と息子・義龍親子の対立騒動に巻き込まれて、一族が離散したとも伝えられている。

 

 さらに光秀が、越前の朝倉義景を頼ってその臣下に。将軍・足利義昭が義景を頼ったという縁もあって、光秀が将軍家とも近しい関係となったようである。一説によれば、将軍家に足軽大将として仕えたと言われることもあるが、これまた明確ではない。

 

 のちに義昭と信長の間をとりもつ仲介役を果たしているところから鑑みれば、対人関係において特別な能力を有していたと見るべきだろう。もちろん、それなりの駆け引きも必要だろうから、野心家で狡猾な部分も少なからず持ち合わせていたと推測できそうだ。

 

■「数千人も虐殺した」のは本当なのだろうか?

 

 さて、本題はここからである。将軍家を経て、いつ頃から信長に仕えることになったのかは定かではないものの、彼が大きく躍進するきっかけとなったのが、悪名高い「比叡山焼き討ち事件」であった。今回のメインテーマは、これである。

 

 時は、朝倉浅井氏との対決を前に、信長がその撃退に躍起になっていた頃のことである。両氏に与する比叡山に対して、信長が総攻撃を命じたのも、無理のない話であった。もはや軍事拠点と化していた比叡山を放置しておくわけにはいかなかったからである。

 

 その焼き討ちの実行部隊として駆り出されたのが、当時まだ、織田勢としての成果を十分に発揮しきれていなかった頃の光秀であった。一説によれば、光秀はこの信長の命に強く反対していたかのように言われることもあるが、彼が積極的に関わっていたことは、その前後の状況および、各書に記された文面から見ても明らかだろう。

 

 光秀が西近江の国衆であった和田秀純に送った手紙の中に、「仰木(仰木谷)のことは是非とも、なでぎりに仕るべく候」と記していたことでも明白であった。「なでぎり」、つまり皆殺しにすべしと、明言していたからである。

 

 これをどう見なすか諸説あるものの(仏像を避難させよとの暗示であったとも)、その後比叡山一帯(一部だけだったとの説もある)が火の海と化し、そこに逃げ込んでいた僧侶ばかりか在野の住民、女子供をも含めて、ことごとく首を刎ねられたと各書に認められている。

 

 その数、フロイスの書簡によれば1500人。『信長公記』では数千人、『言継卿記』では3〜4000人とある。いずれにしても、大量虐殺(ジェノサイド)であったことに変わりはなかった。

 

 ただし、近年はこの信長および光秀の蛮行に関しても、破戒僧がはびこっていた当時の比叡山に天誅を加えるためのもので、しかも記録されているほどの殺戮ではなかったとして、非難されるいわれのないものであったかのように語られることもあるが、果たしてどうか? 多少割り引いたとしても、残虐な行為であったことに変わりないだろう。

 

 では、なぜ光秀がこのような蛮行を働いたのだろうか? もちろん、出世欲が強かったがゆえに、主君である信長に気に入られようと、その命を忠実に実行したからと考えることもできる。

 

 それでも、いくら主君の命とはいえ、一考だにしないまま行動に移したわけではあるまい。良心の呵責に耐えかねて、諭すなり手加減を加えるなど、いくらでも手立てがあったはずである。それさえせずに、むしろ自ら進んで過激な行動に出た訳、それが問題であった。どう見ても、光秀自身が、より積極的にこの蛮行に手を染めたとしか思えないのだ。

 

 考えられるのは一つ。光秀に、主君の思惑以上の成果をあげる必要があったからである。それはなぜか? もしかしたら、来るべき自らの思惑を実行に移そうとしたからではないか? その思惑こそが、「本能寺の変」であったとしたらどうか? 信長には、とことん気を許してもらわなければならなかったはずである。

 

「本能寺の変」決行のために、信長の命を忠実に、あるいはそれ以上の成果を収めるべく、決死の形相で悪行に手を染めた……そんなふうにも想像してしまうのだ。

 

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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