戦闘機「疾風」の開発優先で遅れた先端技術機:高高度戦闘機【キ87】
「日の丸」をまとった幻の試作機 ~ 日本が誇る技術陣が生み出した太平洋戦争における最先端航空機たち【第10回】
太平洋戦争も中盤を過ぎて末期に近づくにしたがって、敗色が濃くなった日本。苦境に立つ皇国(こうこく)の起死回生を担う最先端の航空機を開発・実用化すべく、日本が誇る技術陣は、その英知と「ものづくり」のノウハウの全てを結集して死力を尽くした。第10回は、万能戦闘機「疾風(はやて)」と並行した高高度戦闘機として、将来を見据えて開発が開始されたものの、優先順位を下げられ、結局、試作機1機しか完成しなかった先端技術機のキ87である。

キ87。エンジンの後ろに見える機械が国産のターボチャージャーだが、惜しむらくは不具合が多かった。
太平洋戦争開戦直後の1941年12月末、日本陸軍は中島飛行機に対して、制空・防空・襲撃といった多様な任務に対応可能な、次期高性能万能戦闘機の開発を要請。これを受けた同社は、キ84として4式戦闘機「疾風」を設計。同機は期待通りの優秀な機体で、1944年4月に制式採用され、後に「大東亜決戦機」の通称で逼迫する戦時下の集中生産機種に指定された。
かような万能戦闘機を求めた一方で、日本陸軍は、太平洋戦争の緒戦でフィリピン方面において鹵獲(ろかく)したボーイングB-17フライングフォートレスに装備されていた高高度飛行を可能ならしめるターボチャージャーに注目。いずれアメリカは、これを装備した戦闘機や爆撃機を次々に実戦投入するものと判断した。
そこで1942年、当時「疾風」の開発で躍起となっていた中島飛行機に対し、高高度戦闘機としてキ87の開発を要請した。
中島飛行機はこれを受けると、かつて自社で開発し傑作エンジンとして知られた空冷星型9気筒の「寿(ことぶき)」エンジンを、18気筒化した試作エンジンのハ44-12ルにターボチャージャーを取り付けたものを搭載し、高高度飛行を可能とすることにした。肝心のターボチャージャーは過熱による発火を危惧してエンジン直後の機首右側面に装着されたが、やはりテストに際しては過熱を免れなかった。
また、主脚はまず90度回して、それから後方に向けて引き込むという日本機にしては珍しい方式を採用した。これは、対重爆撃機戦のため30mmと20mmの機関砲をそれぞれ2門ずつ、主翼内に搭載する重武装を可能とするための措置だったが、当時の日本の技術力では実用化が難しく、テスト飛行に際しても不具合が頻発した。
既述のごとくキ87は重武装なうえ、対重爆撃機戦のために重装甲も施されていた。しかし日本陸軍は「疾風」の開発を最優先させることにしたため、結局、当時の日本にとって先端技術機ともいえたキ87は、試作1号機が完成して何回かの飛行テストに供されただけで、試作2号機は、完成間近で終戦を迎えている。
アメリカではすでに実用化されていたターボチャージャーや引込脚の構造に手間取るなど、当時の日本の航空工業技術の限界を感じさせる機体だが、予定では、1945年4月に試作機3機と増加試作機7機の計10機が完成することになっていた。
量産までは辿り着かなくとも、試作を終えて問題点をある程度解決したキ87がせめて数10機の規模で完成していれば、日本本土防空戦における対B-29戦闘に、少しは影響を与えることができたかも知れず、これが残念な点であった。