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5000年前の痕跡を残す国内最大規模の縄文遺跡「三内丸山遺跡」とは?

今月の歴史人 Part.5


世界遺産に登録され、日本の縄文研究で重要な遺跡となっている青森県の「三内丸山遺跡」。この場所がいかなる場所なのかに迫る。


 

■復元された超大型掘立柱建物がもたらした三内丸山ブーム

 

三内丸山遺跡の復元建物
手前の大型掘立柱建造物は、三内丸山遺跡の象徴的な建物としてよく取り上げられている。奥は大型竪穴住居(左)と高床式倉庫(右)。

 

 平成14年(2002)のサッカーワールドカップ開催国に日本が名乗りを挙げ、各地で収容条件に合致するサッカー場建設の気運が盛り上がった。青森県でも立候補するため、既存の県営野球場を移転して新たな県営サッカー場建設の計画をたてた。その移転先こそ江戸時代から知られていた縄文遺跡の「三内丸山遺跡」である。

 

 そのため、平成4年から本格的な発掘調査が開始され、竪穴住居跡をはじめ大型掘立柱建物跡、墓と思われる土坑群、盛土遺構などさまざま多種の遺構と大量の遺物が予想通り出土した。

 

 墓域は計画的に配置されて、道路脇には大人用墓、居住域北側には小児壺棺墓(つぼかんぼ)と明確に区別されていた。遺物量は段ボール箱で6万箱以上(現在では10万箱を超えている)となり、国内でも最多級遺跡となったのである。中でも、注目されたのが縄文のポシェットと呼ばれたイグサ科の植物で編んだ高さ15センチの巾着であった。

 

 そして、この遺跡保存を決定的にしたのが、遺跡中央部で発見された直径約2メートル、深さ約2メートルの大柱穴が柱間隔4・2メートルで6穴出土したことによる。この柱穴には直径1メートルのクリ材が残っており、専門家の推測ではこのクリ材は高さ10メートル以上になる巨木だったと思われる。後日、これらのデータから超大型掘立柱建物の復元建造物案が複数提案され、その中から現在現地で復元されている案が採用されたのである。

 

 以上の状況から、県は急遽当初の計画を中止し、調査体制も変更し万全体制での発掘へと進展した。遺跡の総面積は約38ヘクタールで現在まで調査が進んでいるのはわずか7ヘクタールほどである。このような動きが連日マスコミなどで報道されるや、遺跡が東北自動車道青森インターを降りてすぐという地理的至便さも加わって、連日全国から多くの見学者が訪れいわゆる「三内丸山ブーム」が惹起された。

 

 その後の発掘調査で、1500年以上継続された縄文前期から中期の大集落で、最盛期には500人を越えるムラ人が生活し、クリなどは周辺で栽培されていたことも指摘されている。実は各種遺構の発掘調査で、大量の「クリ」の実が出土し、これらのDNAを分析した処、そのバンド分析がほぼ均等であることが判明した。つまり、自然界ならば植物のDNAバンドは不均等バラバラになるのが通常だが、均等になることはそこに「人為的」作用が加味されていたことを示している。

 

【DATE】
[推定年代] B.C.3900~2200
[アクセス] 東北自動車道青森ICから車で約5分
[主な遺構] 竪穴住居、掘立柱建物、土坑墓、盛土、貯蔵穴、道路、大型建物
[発掘物] 魚骨、動物骨、クリ、クルミ、木製品、骨角品、編籠、ヒスイ、黒曜石など

 

監修・文/山岸良二

歴史人2023年7月号「縄文と弥生」より

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