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徳川家康が築山殿・信康の処刑を決断したのは徳川家臣団のため⁉

徳川家康の「真実」㉑


徳川家康が関与したといわれる、松平信康・築山殿自害事件については様々な説が飛び交っている。


 

■家臣の「武田家への内通」嫌疑が自身に及ぶのを恐れた家康

 

浜松城
当時、徳川家中は2つに分かれており、浜松城には家康を中心とした旗本がいた。

 

 徳川家康が「嫡男信康・正室築山殿の武田内通」についてふたりへの処罰を選んだ、というのは非常に微妙な問題を含む。近年は「家康主導で信長は後世に罪をなすりつけられただけ」という説が注目されているからだ。

 

 しかし、史実としては家康・信康父子の不仲、それを煽る「讒言者」の存在、信長の三河注視、岡崎家臣団の処分があるのみで、家康が信康粛清を主導したと断定できる証拠は無い。ただ、仮に家康が主導したとしても、信長の許可は必須である。何しろ信康は信長の娘を妻に迎えているのだから。

 

岡崎城
岡崎には松平信康の旗本がいた。

 

 事実、家康が信康生害を信長に相談し、信長は「いかようにも存分次第」と返答したとする比較的良質な史料もある(『松平記』)。天正7年以前の状況を総合して考えるとすれば、2つの事件に注目したい。それは、天正3年の水野信元(みずののぶもと)殺害と天正6年の荒木村重(あらきむらしげ)謀反だ。

 

 前者は家康の伯父である信元が武田家内通を疑われ信長の命で命を落とし、後者は村重が部下による本願寺への兵糧融通が信長に知られるのを怖れて本願寺方へ寝返ったというもので、いずれも敵方への内通という共通項がある。家康は、武田家への内通という嫌疑が自分にまで及ぶのを恐れ、信康の処分と不満家臣団の粛清について信長の許可を得ようとしたのではないだろうか。

 

「だんまりを決め込んでも見過ごすような信長様ではない以上、組織のためにはやむを得ぬ」と家康は幽閉処分で反抗的な信康も反省するかとも期待したのだろう。

 

監修・文/橋場日明

(『歴史人』2022年8月号「徳川家康 天下人への決断」より)

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