大阪・淀川周辺の古墳と遺跡を訪ねて思う「広域研究」の重要性
[入門]古墳と文献史学から読み解く!大王・豪族の古代史 #082
古代の人たちに現代の行政区画は全く関係のないもの。古代人は旺盛な開拓意欲と行動力を以て、想像以上に広大な範囲で活動していたはずだ。古代史の研究調査は市境・県境・国境を大きく超えてもっと強く連携しなければならないのではないだろうか?
■大阪に残る古墳と弥生遺跡
先日、大阪府枚方市(ひらかたし)に久しぶりに出かけました。目的は、禁野車塚(きんやくるまづか)古墳と牧野車塚(まきのくるまづか)古墳という、最古級の前方後円墳を踏査(とうさ)するためです。古いほうの禁野車塚は、最初の大型前方後円墳だといわれる奈良の箸墓(はしはか)古墳とデザインが酷似しており、後円部から前方部へのつながり部分が非常に細くくびれて、前方部は三味線の撥(ばち)のように広がっています。西日本にはいくつか「撥型前方後円墳」がありますが、禁野車塚はその中でも同じような時期の築造だと考えられています。
そのあとに築造されたのが牧野車塚で、面白いのはどちらも東西に軸線を示していることでしょうか。
禁野車塚は東が後円部で西側が前方部、牧野車塚はその真逆です。
禁野車塚古墳は天野川の東岸に接して築造されていますし、牧野車塚は穂谷川と淀川のそばに築造されています。いずれも3世紀後半と4世紀初頭ぐらいに人々を統率して導いたリーダーの墳墓ですが、もちろん全力を挙げて稲の収穫増産をしていた時代ですから、米作りに重要な水利権を握ったリーダーだったのでしょう。
さてここで地図をご覧いただきましょう。

© OpenStreetMap contributors ※古墳・遺跡の位置の図示/柏木宏之
Aは枚方市の「禁野車塚古墳」、Bは「牧野車塚古墳」です。そしてCは高槻市の「安満(あま)遺跡」、Dは「安満宮山(あまみややま)古墳」です。3世紀半ばに築造された安満宮山古墳からは、魏(ぎ)の「青龍三年」と記した紀年鏡(きねんきょう)など五枚の舶載鏡(はくさいきょう)が出土しています。この古墳は弥生墳丘墓形式の長方形墳で、直葬土壙墓(ちょくそうどこうぼ)です。
古墳時代初めのこの両地域の距離は、淀川を挟んでほぼ同一の共同体とみることもできます。少なくとも敵対関係にあった証拠は出てきませんし、むしろ安満遺跡は繁栄しています。枚方側も、前方後円墳を築造していますので、争いはなく繁栄していたはずです。
さらに俯瞰してみると、禁野車塚古墳と牧野車塚古墳の間の時代だと思われる忍岡(しのぶがおか)古墳が枚方市の南方の四条畷市(しじょうなわてし)にあります。大阪府では、四条畷の遺跡が府内最古級の弥生遺跡です。
今から2500年昔の四条畷付近は、大きく海が入り込んだ河内湾のほとりだったので、東上する弥生人がいち早く集落を造営したと思われます。そして河内湾に通じる淀川右岸の高槻市安満地域にも、左岸の枚方市周辺にも弥生集落が造営されたわけです。大和王権の発展にかかわったであろう有力な弥生集落だったといえるでしょう。
遺跡調査はこれまでも合同調査をされることがありますが、共同研究をさらに強力に進めてもらいたいものです。そうしてさらに広大な地域に営まれた弥生時代から古墳時代にかけての姿を合理的に解きたいですね。
そうして広げていくと、大阪府、奈良県、和歌山県、京都府、兵庫県など、今度は府県を越えて合同研究を進めたくなります。さらに広げて日本列島全体から朝鮮半島、中国大陸、シベリア地域の密な合同研究が必要になるでしょうが、問題になるのは国家間の友好関係と莫大な予算でしょうね(泣)。
しかしながら各地の地中に保存されている文化財は貴重です。まさに真実を語る考古史料です。これらを守り、少しづつでも研究を続けて、行政区画や国家を超えた全体像の共同研究が必要になってきているのは間違いないでしょう。

牧野車塚周~くびれ部の様子。西側の周濠内からくびれ部を見るとこのような景色が見える。 撮影/柏木宏之