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「三度の飯より酒が好き」な医者が水戸公の命を救った!? 誰もが驚いた“奇跡の薬”の正体とは

世にも不思議な江戸時代⑧


酒が三度の飯よりも好き。そのために金がなくなり、江戸に出て来た医者がいた。彼は、江戸でも酒を飲み、そこで知り合いになった者の伝手で水戸藩邸に出入りするようになった。


 

■酒好きの医者が水戸藩の危機を救う!?

 

 これは原南陽という実在した医者の話である。原は生来の酒好きで、そのためか貧乏になり、江戸に出て小石川あたりの長屋に住み着いた。按摩や針を行い、それでわずかな金を得ても衣食にはかまわずに酒を飲んでしまう生活を送っていた。

 

 こうして酒屋通いを続けているうちに常連たちと仲良くなった。その中には近くに住む水戸藩士がいた。この水戸藩士の伝手で、水戸藩邸に出入りし始めた。京都で修行したこともあり、様々なことに通じ、その上、話し上手だった。そのため彼が藩邸へ行くと多くの人がやって来るようになり、時には高禄の者から酒をふるまわれることもあったという。原は好きなだけ酒を飲むことができるようになり、江戸は暮らしやすいと思うようになった。

 

 ある夏の日、水戸公が暑気あたりで倒れてしまった。御殿医はもちろん当時評判の高かった町医者も呼び寄せたが一向に良くならないばかりが危篤状態になってしまった。そのとき、1人の藩士が「実は、試していただきたい者がおります」と切り出した。

「この藩邸にも時々やってきて針や按摩を行っておりますが、もともとは三代続いた医者だそうです。京都で修行したこともあると申しておりますのでその者を呼びたいのですがよろしいでしょうか」

 上の者たちは協議し、その者を呼んで来いと使いの者を出した。

 

 使いの者が原の家に行ったが彼は昼寝をしていた。使いの者が原を起こして水戸公の様子を話すと、原はそれ聞きながら支度をし、家を出て、薬種屋に立ち寄った。そこで巴豆という豆と杏の種の中にある杏仁を9文で買った。

 

 これらを紙に包んで水戸藩邸に行き、藩士に借りて服装を改めた。そして、水戸公の前に出ると

「これは乾霍乱だと思われます。今から出す薬を服用していただければ回復すると思われますが、全快されるまで薬の名前は申し上げられません。それでもよろしければ薬を処方いたします」

 

 原の言葉に家臣たちはうなずいた。それを見届けると原は先ほど買い求めた豆と杏仁を懐から恭しく取り出して茶碗の中ですりつぶし熱湯を入れてかき混ぜ、水戸公の口の中にうまく落とした。

「半刻(1時間)ほどすると吐瀉されると思います。すべて出されたら直ります」

 説明が終わり、こんな堅苦しいところにはいたくないと部屋を出て行ってしまった。

 

 原のいうとおり、半時ぐらい過ぎたころから水戸公は苦しまれ、やがて幾度も吐瀉すると、夢から覚めたような顔になった。すべてが原が言った通りで、驚いた藩士たちが部屋から出て行った原を探すと台所で熱燗を飲んでうたたねしていた。

 

 原を起こして水戸公の元に連れて行き診察させた。水戸公を診た原は「この薬は走馬湯という薬で、こういう使い方もあるのです。全快されましたのでこの後薬は出しません」といった。

 

 このことがあって原は水戸公に500石で召し抱えられることになり、以後約30年、三代の水戸公に仕えることになったという。その一方で200人を超える門弟を抱え、医学や針灸に関する著書も残し、江戸時代の医学史に大きな足跡を残した。

水戸様御庭地取図
図版の中に小石川と書かれているので、この話に出てくる水戸家の上屋敷の庭だと考えられる。なお、この上屋敷の庭は、現在小石川後楽園として一般に公開されている。/東京国立博物館蔵 ColBase

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過去記事

加唐 亜紀

1966年、東京都出身。編集プロダクションなどを経てフリーの編集者兼ライター。日本銃砲史学会会員。著書に『ビジュアルワイド図解 古事記・日本書紀』西東社、『ビジュアルワイド図解 日本の合戦』西東社、『新幹線から見える日本の名城』ウェッジなどがある。

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