父政宗への恨みに一転した伊達秀宗の「自負」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第86回
■伊達家の世子としての「自負」

築城の名手である藤堂高虎が築城した宇和島城。秀宗は初代宇和島藩主として、元和元年(1615)に入城。現在は現存12天守のひとつとして、各地から多くの人が訪れる。
伊達秀宗(だてひでむね)は伊達政宗(まさむね)の庶長子(じょちょうし)として生まれ、伊予宇和島藩10万石の初代藩主となったものの、宗家の仙台藩と長く対立を続けた武将というイメージが残されています。
秀宗は母が側室であったものの、政宗と正室の間に男子が生まれなかったため、伊達家の世子として扱われるようになります。
しかし、関ヶ原の戦いの後に徳川家が権力を掌握すると、弟忠宗(ただむね)に世子の座を譲らされることとなり、その後、父政宗と感情的な対立を起こしていくことになります。
この争いは、秀宗が世子として苦労を重ねてきたという「自負」が原因だと考えられます。
■「自負」とは?
「自負」とは、辞書によると「自分の能力や功績を人に誇れるくらいには立派であると信じることである」とされています。
つまり、自分の才能や仕事について自信を持ち、誇りに思う心の事です。そして、何事もやり遂げるという責任感が付随します。「自負心」は、プライドや矜持に置き換えることもできます。
混同されがちな「自尊心」は「他人からの干渉を無視して品位を保とうする態度の事」とされています。自分の能力や功績の有無に関係なく、自分を尊いと思う気持ちなので、「自負」とは大きな違いがあります。
秀宗には、伊達家に尽くしてきたという強い「自負」があったと思われます。
■伊達家の事績
伊達家は藤原北家の藤原山蔭(ふじわらのやまかげ)を祖と称しています。鎌倉時代初期の奥州合戦での活躍によって、源頼朝から伊達郡の地頭職を得た事が始まりとされています。
伊達宗家14代伊達稙宗(たねむね)のころに陸奥守護に任じられ、奥州探題の大崎家や羽州探題(うしゅうたんだい)の最上家を傘下に取り込むなどして、勢力を拡大しています。
しかし、1541年に、稙宗と15代晴宗(はるむね)の父子間で主導権争いが始まり、諸侯を巻き込んで天文の乱が起こります。
17代当主となった政宗は1589年に摺上原(すりあげはら)の戦いで芦名家を滅ぼし、会津地方を勢力下に収めました。この時、伊達家は自領と陸奥国の南半分を合わせて、114万石を支配下に置いたと言われています。
一方、秀吉が中央で勢力を拡大していく中で、その対応に遅れをとってしまいます。小田原征伐への遅参などもあり、後に豊臣政権から惣無事令違反とされ、会津を没収され72万石に減封されてしまいます。
さらに1591年には葛西大崎一揆を煽動した疑いにより、父祖以来の自領を没収され、58万石にまで減封されます。
同年に庶長子として秀宗が誕生しました。伊達家の世子として、1594年に秀宗は豊臣家へ預けられ、伏見城にて養育されることになります。
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