朝廷と幕府に亀裂が入った政治対立「尊号一件」
蔦重をめぐる人物とキーワード㉞
■天皇の〝孝情〟と幕府の〝名分論〟が対立した
光格天皇は、江戸時代後期の第119代天皇である。
1779(安永8)年、第118代後桃園(ごももぞの)天皇が皇子のないまま急逝したため、傍系の閑院宮家の第六王子・祐宮として生まれた彼は、わずか9歳で後桃園天皇の養子となり皇位を継承した。この異例の皇位継承により、天皇の実父である閑院宮典仁(すけひと)親王が先代天皇ではないという特殊な状況が生じた。
成長した光格天皇は、実父が『禁中並公家諸法度』の規定により、儀礼上の席次において臣下である大臣よりも下位に甘んじなければならない状況を「心苦しく」思うようになる。子としての純粋な孝情から、典仁親王の地位を高めたいという願いが、やがて朝廷全体の意思として形成され、具体的な政治行動へと発展していった。
1789(寛政元)年、朝廷は幕府に対し、典仁親王へ「太上天皇」の尊号を宣下することについて内議した。朝廷は、皇位に就かなかった天皇の父に太上天皇の尊号が贈られた後高倉院(ごたかくらいん)や後崇光院(ごすこういん)の先例を根拠とし、皇父を尊崇する正当性を主張している。
これに対し、老中首座・松平定信は断固として反対した。定信の論理は「皇位につかない私親を太上天皇とすることは名分をみだるものである」という名分論に基づいていた。
幕府にとって、天皇が私的な孝情を理由に称号を改変する前例を許すことは、武家社会の厳格な身分序列を根底から揺るがしかねない、危険な思想的挑戦として映ったのである。
さらに幕府内部では、第11代将軍・徳川家斉(いえなり)の実父である一橋治済(ひとつばしはるさだ)を「大御所」として待遇する問題が浮上しており、朝廷の要求を許せば、この動きを拒絶する論理的根拠を失いかねないという政治的背景もあった。
交渉は約4年にわたって続いた。1791(寛政3)年には朝廷内で宣下(せんげ)を求める声が再燃し、公卿の大半が支持するに至った。翌1792(寛政4)年、朝廷は改めて宣下の意思を伝えたが、幕府は議奏・武家伝奏に江戸下向を厳命するという強硬手段に出た。
この事態に至り、朝廷は同年11月13日、宣下を断念した。翌1793(寛政5)年、幕府は議奏の中山愛親(なかやまなるちか)を閉門、武家伝奏の正親町公明(おおぎまちきんあき)を逼塞(ひっそく)に処する一方、典仁親王には千石の増進という懐柔策を講じた。
この事件は、江戸時代後期の政治史において極めて重要な意味を持つ。短期的には幕府の権威を再確認する結果に終わったが、長期的には朝幕関係に決定的な亀裂を生じさせた。それまで比較的安定していた朝幕関係において、朝廷が幕府の意向に正面から反論し、強硬な姿勢を貫こうとした姿は、まさに画期的な出来事であった。
皮肉なことに、幕府が天皇の純粋な孝情に基づく願いを武家の論理で拒絶した事実は、尊王思想を助長する結果となった。幕府の権威に疑問を抱く者たちにとって、この事件は格好の攻撃材料となり、朝廷自身が示した前例のない強硬姿勢は、のちの尊王の志士たちに歴史的先例を提供するものとなったのである。事件の強硬な処理は、松平定信がのちに老中を解任される一因になったとされる。
約一世紀後の1884(明治17)年、典仁親王に「太上天皇」の尊号と「慶光(きょうこう)天皇」の諡号(しごう)が追贈されたことは、幕藩体制の終焉と天皇を中心とする新たな国家体制の確立を象徴する出来事であり、尊号(そんごう)事件が歴史に残した問いへの最終的な回答であったと言えるだろう。
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