渋沢栄一も賞賛した松平定信の「仁政」
蔦重をめぐる人物とキーワード㉙
8月24日(日)放送の『べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~』第32回「新之助の義」では、市中に米が行き渡らず、庶民が幕府に怒りの声をあげ始める様子が描かれた。田沼意次(たぬまおきつぐ/渡辺謙)の善政を知る蔦屋重三郎(つたやじゅうざぶろう/通称・蔦重/横浜流星)は、幕府や田沼を罵る庶民の認識に戸惑いを隠せず、自らも誤解されることになるのだった。
■無策の幕府に江戸庶民が決起

福島県白河市の南湖公園。誰もが楽しめる「士民共楽」という理念を掲げた松平定信により、1801(享和元)年に築造された。娯楽・観光目的に加え、湖水は農業用水や水練・船舶操縦の訓練場として使われたほか、公園の建設事業そのものが、領民救済の意味合いを併せ持っていた。
老中を辞職した田沼意次に対し、徳川御三家と松平定信(まつだいらさだのぶ/井上祐貴)は追罰を求める意見書を提出。結果、意次は二万石と屋敷を没収される。しかし、意次は失脚したままでは終わらなかった。
御三家が意次の後任として定信を老中に推挙すると、現老中の松平康福(やすよし/相島一之)と水野忠友(みずのただとも/小松和重)が「大奥からの提言」という名目を使い、定信の就任と引き換えに意次の謹慎を解くことを要求。これが通り、意次は登城を許される。表向きは平大名(ひらだいみょう)だったが、幕政の中枢に策を与え続ける「裏の老中首座」として、再び影響を及ぼし始めていた。
さらに、老中就任を目前とした定信に対して、定信の妹・種姫が将軍・徳川家治(とくがわいえはる)の養女であるため、定信は次期将軍・徳川家斉(いえなり/城桧吏)の義兄にあたることから「将軍家の身内は老中になれない」という幕府の定めに抵触すると主張。この巧みな論法で定信の老中就任を阻止する。
さらに意次は、紀州徳川家の当主・徳川治貞(はるさだ/高橋英樹)に働きかけて御三家の結束を切り崩し、空席となった老中の地位に田沼派の人物を送り込むことに成功する。家斉が第十一代将軍に就任する儀式が行われる頃には、幕閣は再び田沼派で固められていた。
その矢先、大坂で米価高騰を原因とする打ちこわしが発生。混乱が江戸に波及することを恐れた意次は、治貞を仲立ちとし、政敵である定信に直接面会。江戸市中のために「お救い米」を供出するよう、頭を下げて要請する。定信はこれを受諾したものの、結果的に米を出し渋るという策に出た。
こうして、事前に告知した期日に「お救い米」が市中に出回ることはなく、耐えに耐えてきた民衆の幕府への怒りが最高潮に達した。
困窮にあえぎ、妻と子どもを失った小田新之助(井之脇海)は、江戸市中での打ちこわしを決意。蔦重は、江戸っ子ならではの打ちこわし、すなわち〝喧嘩〟を提案し、新之助らを手助けするのだった。
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